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「デーブ・パブラス」の版間の差分

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ストライキ終了後の{{by|1995年}}に[[ニューヨーク・ヤンキース]]と契約し、メジャー再昇格を果たす。
ストライキ終了後の{{by|1995年}}に[[ニューヨーク・ヤンキース]]と契約し、メジャー再昇格を果たす。


{{by|1997年}}は、ヤンキース傘下AAA級[[コロンバス・クリッパーズ|コロンバス]]で1勝3敗・防御率4.62と振るわずメジャー昇格できなかったところに、[[読売ジャイアンツ]]からオファーを受け6月7日に日本入りして年俸3,000万円で入団契約を結んだ<ref>読売新聞、1997年6月8日付朝刊、P.16</ref>。中継ぎや抑えとして併用されていた[[木田優夫]]や[[三澤興一|三沢興一]]を中継ぎに専念させるための[[リリーフ|クローザー]]として期待され<ref name="yomiuri_19970619">読売新聞、1997年6月19日付朝刊、P.25</ref>、初登板から4試合連続セーブを挙げるも、その後3試合連続で救援失敗。7月4日に新たなクローザー候補の[[趙成ミン|趙成珉]]と入れ替わりに二軍に落ち<ref>読売新聞、1997年7月4日付朝刊、P.25</ref>、そのまま一軍に復帰することなく[[8月26日]]に球団から契約更新をしない旨を通告され退団した。
{{by|1997年}}は、ヤンキース傘下AAA級[[コロンバス・クリッパーズ|コロンバス]]で1勝3敗・防御率4.62と振るわずメジャー昇格できなかったところに、[[読売ジャイアンツ]]からオファーを受け6月7日に日本入りして年俸3,000万円で入団契約を結んだ<ref>読売新聞、1997年6月8日付朝刊、P.16</ref>。中継ぎや抑えとして併用されていた[[木田優夫]]や[[三澤興一|三沢興一]]を中継ぎに専念させるための[[リリーフ|クローザー]]として期待され<ref name="yomiuri_19970619">読売新聞、1997年6月19日付朝刊、P.25</ref>、初登板から4試合連続セーブを挙げるも、その後3試合連続で救援失敗。7月4日に新たなクローザー候補の[[趙成珉]]と入れ替わりに二軍に落ち<ref>読売新聞、1997年7月4日付朝刊、P.25</ref>、そのまま一軍に復帰することなく[[8月26日]]に球団から契約更新をしない旨を通告され退団した。


{{by|1998年}}に兄弟エレファンツに復帰し、1シーズンプレー。{{by|2001年}}にパイレーツ傘下AAA級[[ナッシュビル・サウンズ|ナッシュビル]]でプレーしたのを最後に現役引退。
{{by|1998年}}に兄弟エレファンツに復帰し、1シーズンプレー。{{by|2001年}}にパイレーツ傘下AAA級[[ナッシュビル・サウンズ|ナッシュビル]]でプレーしたのを最後に現役引退。

2020年8月14日 (金) 21:55時点における版

デーブ・パブラス
Dave Pavlas
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 西ドイツの旗 西ドイツ
フランクフルト
生年月日 (1962-08-12) 1962年8月12日(62歳)
身長
体重
6' 7" =約200.7 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1984年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1990年8月21日
CPBL / 1993年9月11日
NPB / 1997年6月10日
最終出場 MLB / 1996年9月29日
CPBL / 1998年10月24日
NPB / 1997年6月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

デビッド・リー・パブラスDavid Lee Pavlas, 1962年8月12日 - )は、ドイツフランクフルト出身のプロ野球選手投手)。ドイツ生まれだがアメリカ国籍である[1]

読売ジャイアンツでの登録名はデビットと、ファーストネームの末尾が清音の「ト」で登録された。兄弟エレファンツでの登録名は大偉

来歴・人物

1984年シカゴ・カブスと契約し、1990年8月21日の対シンシナティ・レッズ戦(リバーフロント・スタジアム)でメジャーデビュー。同年はリリーフとして13試合に登板して2勝を挙げるものの、1991年は打ち込まれた1試合の登板のみに終わった。

1993年は6月1日にピッツバーグ・パイレーツと契約するが、メジャーに昇格することなく8月15日に退団。同年9月から10月まで中華職業棒球聯盟(CPBL)の兄弟エレファンツでプレーした。

1994年8月から1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャー昇格後も選手会への加入を認められなかった。

ストライキ終了後の1995年ニューヨーク・ヤンキースと契約し、メジャー再昇格を果たす。

1997年は、ヤンキース傘下AAA級コロンバスで1勝3敗・防御率4.62と振るわずメジャー昇格できなかったところに、読売ジャイアンツからオファーを受け6月7日に日本入りして年俸3,000万円で入団契約を結んだ[2]。中継ぎや抑えとして併用されていた木田優夫三沢興一を中継ぎに専念させるためのクローザーとして期待され[3]、初登板から4試合連続セーブを挙げるも、その後3試合連続で救援失敗。7月4日に新たなクローザー候補の趙成珉と入れ替わりに二軍に落ち[4]、そのまま一軍に復帰することなく8月26日に球団から契約更新をしない旨を通告され退団した。

1998年に兄弟エレファンツに復帰し、1シーズンプレー。2001年にパイレーツ傘下AAA級ナッシュビルでプレーしたのを最後に現役引退。

プレースタイル

140km/h前後の速球シンカーチェンジアップを交え、打たせて取る投球を持ち味とした[3]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1990 CHC 13 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 93 21.1 23 2 6 2 0 12 3 0 7 5 2.11 1.36
1991 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 3 1 0 0 0 0 0 0 2 2 18.00 3.00
1993 兄弟 5 3 0 0 0 2 0 0 0 1.000 102 26.1 23 2 5 1 2 9 1 0 7 8 2.39 1.06
1995 NYY 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 5.2 8 0 0 0 0 3 0 0 2 2 3.18 1.41
1996 16 0 0 0 0 0 0 1 -- ---- 97 23.0 23 0 7 2 1 18 3 0 7 6 2.35 1.30
1997 巨人 7 0 0 0 0 0 0 4 -- ---- 32 6.0 10 0 4 2 1 4 1 0 4 4 6.00 2.33
1998 兄弟 17 1 0 0 0 2 2 1 0 .500 141 31.2 37 1 9 1 1 19 2 0 17 9 3.12 1.45
MLB:4年 34 0 0 0 0 2 0 1 -- 1.000 219 51.0 57 3 13 4 1 33 6 0 18 15 2.65 1.37
CPBL:2年 22 4 0 0 0 4 2 1 0 .667 243 58.0 60 3 14 2 3 28 3 0 24 16 2.48 1.28
NPB:1年 7 0 0 0 0 0 0 4 -- ---- 32 6.0 10 0 4 2 1 4 1 0 4 4 6.00 2.33

記録

NPB

背番号

  • 46 (1990年 - 1991年、1998年)
  • 42 (1993年)
  • 56 (1995年)
  • 47 (1996年)
  • 67 (1997年)

脚注

  1. ^ Donald Lutz to become first German Major Leaguer - IBAF
  2. ^ 読売新聞、1997年6月8日付朝刊、P.16
  3. ^ a b 読売新聞、1997年6月19日付朝刊、P.25
  4. ^ 読売新聞、1997年7月4日付朝刊、P.25

関連項目

外部リンク