コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「陳公博」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「高凌イ」→「高凌霨」他、人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (廖仲愷) - log
25行目: 25行目:
[[広東省]]に生まれる。清朝の高官だった父親は[[広西省|広西]][[提督 (清朝)|提督]]を務めた。陳公博は[[北京大学]]に学び[[五四運動]]に参加、[[マルクス主義]]や[[社会主義]]に触れる。[[1920年]]に大学を卒業すると[[陳独秀]]らの指導の下[[中国共産党]]の[[オルグ (社会運動)|オルグ]]として活動、翌[[1921年]]の[[中共一大会議]]に参加するが、後に共産党から脱党する。
[[広東省]]に生まれる。清朝の高官だった父親は[[広西省|広西]][[提督 (清朝)|提督]]を務めた。陳公博は[[北京大学]]に学び[[五四運動]]に参加、[[マルクス主義]]や[[社会主義]]に触れる。[[1920年]]に大学を卒業すると[[陳独秀]]らの指導の下[[中国共産党]]の[[オルグ (社会運動)|オルグ]]として活動、翌[[1921年]]の[[中共一大会議]]に参加するが、後に共産党から脱党する。


共産党脱党後に渡米し、[[1925年]][[コロンビア大学]]で[[修士号]]を取得。帰国後に[[中国国民党]]に入党し、[[廖仲ガイ|廖仲愷]]や[[汪兆銘]]と共に国民党左派として活動する。[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が始まると[[蒋介石]]や汪と共に北上するが、一時蒋に反旗を翻し[[武漢国民政府]]に参加。武漢国民政府解散後は[[張発奎]]・[[李済深]]と共に抵抗を続けるが[[1927年]]には[[香港]]へ亡命する。翌[[1928年]]に[[上海市|上海]]へ赴くが、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928~1949)|国民政府]]に対して反主流的な言動を取り続ける。
共産党脱党後に渡米し、[[1925年]][[コロンビア大学]]で[[修士号]]を取得。帰国後に[[中国国民党]]に入党し、[[廖仲愷]]や[[汪兆銘]]と共に国民党左派として活動する。[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が始まると[[蒋介石]]や汪と共に北上するが、一時蒋に反旗を翻し[[武漢国民政府]]に参加。武漢国民政府解散後は[[張発奎]]・[[李済深]]と共に抵抗を続けるが[[1927年]]には[[香港]]へ亡命する。翌[[1928年]]に[[上海市|上海]]へ赴くが、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928~1949)|国民政府]]に対して反主流的な言動を取り続ける。


[[満州事変]]勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが[[1936年]]に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。[[1938年]]に汪共々[[重慶市|重慶]]を脱出し、対日和平を模索。[[1940年]]に至って[[汪兆銘政権]]が成立すると[[立法院 (中華民国)|立法院]]長を務めると共に上海市長を兼任。[[1944年]]3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。
[[満州事変]]勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが[[1936年]]に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。[[1938年]]に汪共々[[重慶市|重慶]]を脱出し、対日和平を模索。[[1940年]]に至って[[汪兆銘政権]]が成立すると[[立法院 (中華民国)|立法院]]長を務めると共に上海市長を兼任。[[1944年]]3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。

2020年8月14日 (金) 11:31時点における版

陳公博
1943年
プロフィール
出生: 1892年10月19日
光緒18年8月29日)
死去: 1946年民国35年)6月3日
中華民国の旗 中華民国江蘇省蘇州市
出身地: 清の旗 広東省広州府南海県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 陳公博
簡体字 陈公博
拼音 Chén Gōngbó
ラテン字 Ch'en Kung-po
注音二式 Chén Gūngbó
和名表記: ちん こうはく
発音転記: チェン ゴンボー
テンプレートを表示

陳 公博(ちん こうはく、1892年10月19日 - 1946年6月3日)は、中華民国政治家日中戦争中に汪兆銘と共に日本との協調路線を政策方針とする南京政府を設立、戦後は日本に協力した漢奸として死刑となった。

人物・来歴

広東省に生まれる。清朝の高官だった父親は広西提督を務めた。陳公博は北京大学に学び五四運動に参加、マルクス主義社会主義に触れる。1920年に大学を卒業すると陳独秀らの指導の下中国共産党オルグとして活動、翌1921年中共一大会議に参加するが、後に共産党から脱党する。

共産党脱党後に渡米し、1925年コロンビア大学修士号を取得。帰国後に中国国民党に入党し、廖仲愷汪兆銘と共に国民党左派として活動する。北伐が始まると蒋介石や汪と共に北上するが、一時蒋に反旗を翻し武漢国民政府に参加。武漢国民政府解散後は張発奎李済深と共に抵抗を続けるが1927年には香港へ亡命する。翌1928年上海へ赴くが、国民政府に対して反主流的な言動を取り続ける。

満州事変勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが1936年に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。1938年に汪共々重慶を脱出し、対日和平を模索。1940年に至って汪兆銘政権が成立すると立法院長を務めると共に上海市長を兼任。1944年3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。

戦後の混乱時に、支那派遣軍総参謀副長今井武夫少将に申し出て、一時的に日本へ身を寄せるが、国民政府の帰国要請で裁判を受けるため中国へ帰国する[1]。「南京偽政府を樹立し、中国国民の利益に反する行為を行なってきた」[2]との理由で1946年4月12日死刑判決を受け、6月3日蘇州で銃殺された。

脚注

  1. ^ この間の事情は、みすず書房から発行の今井武夫『支那事変の回想』に詳述されている。
  2. ^ 益井康一『漢奸裁判史』 P60

参考文献

陳公博(『写真週報』1940年4月3日)
  • 『中国国民党秘史』陳公博著 岡田酉次訳 講談社 1980年
  • 『日中終戦史話』小川哲雄著 原書房 1985年
  • 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』今井貞夫著 高橋久志監修 中央公論事業出版社 2007年
  • 『民国職官年表』劉寿林ほか編 中華書局 1995年
  • 『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』今井武夫著 高橋久志・今井貞夫監修 みすず書房 2009年(『支那事変の回想』増補改題)

関連項目

 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
孔祥熙
実業部長
1931年12月 - 1935年12月
次代
呉鼎昌
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
立法院長
1940年3月 - 1944年11月
次代
梁鴻志
先代
(創設)
広東省政府主席
1940年4月 - 11月
(陳耀祖が代理)
次代
陳耀祖
先代
傅筱庵
上海特別市長
1940年11月 - 1944年12月
次代
周仏海
先代
汪兆銘
主席
1944年3月 - 1945年12月
(1944年11月まで代理)
次代
(廃止)
先代
汪兆銘
行政院長
1944年11月 - 1945年8月
次代
(廃止)