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2020年8月14日 (金) 11:27時点における版
高恩洪 | |
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プロフィール | |
出生: | 1875年(清光緒元年) |
死去: |
1928年(民国17年) 中華民国上海市 |
出身地: | 清山東省登州府蓬莱県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 高恩洪 |
簡体字: | 高恩洪 |
拼音: | Gāo Ēnhóng |
ラテン字: | Kao En-hung |
和名表記: | こう おんこう |
発音転記: | ガオ オンホン |
高 恩洪(こう おんこう)は、清末民初の政治家。北京政府、直隷派に属した。字は定庵。
事跡
上海電気測量学堂を卒業して、イギリスに留学する。インペリアル・カレッジ・ロンドンを卒業後に帰国して、電報局の職員となり、後に徐世昌の文案(秘書)となった。
1907年(光緒33年)、インドとチベットの国境画定交渉に参加し、その後、東三省電報事宜となる。1909年(宣統元年)、郵伝部津浦鉄路局弁事員を経て、袁世凱内閣が成立した1911年(宣統3年)には、交通部秘書に任じられた。
中華民国が成立すると、高恩洪は、川漢鉄路局秘書兼漢口電報局局長となる。1914年(民国3年)、川蔵電報局局長に異動する。その翌年には、上海電料管理局局長を務めた。1920年(民国9年)9月、交通部諮議を兼任した。
1922年(民国11年)5月以降、顔恵慶、唐紹儀、王寵恵、汪大燮の各内閣で署理交通総長をつとめた。これにより、直隷派の政治家と目されるようになる。1924年(民国13年)3月、膠澳埠督弁、私立青島大学校長をつとめた翌年10月には、呉佩孚率いる十四省聯軍司令部交通処処長となった。呉佩孚の敗北とともに、高恩洪も下野して実業界に転じる。上海で自動車会社を創設した。
1928年(民国17年)、上海で死去。享年54。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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