コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「高恩洪」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「高凌イ」→「高凌霨」他、人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (高凌霨) - log
37行目: 37行目:
|-
|-
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|交通総長(署理)|<small>[[1922年]]5月 - [[1923年]]1月</small>|[[高凌イ|高凌&#x9728;]]|[[呉毓麟]]}}
{{先代次代|交通総長(署理)|<small>[[1922年]]5月 - [[1923年]]1月</small>|[[高凌]]|[[呉毓麟]]}}
|}
|}



2020年8月14日 (金) 11:27時点における版

高恩洪
プロフィール
出生: 1875年光緒元年)
死去: 1928年民国17年)
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 清の旗 山東省登州府蓬莱県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 高恩洪
簡体字 高恩洪
拼音 Gāo Ēnhóng
ラテン字 Kao En-hung
和名表記: こう おんこう
発音転記: ガオ オンホン
テンプレートを表示

高 恩洪(こう おんこう)は、清末民初の政治家。北京政府直隷派に属した。定庵

事跡

高恩洪別影 (Who's Who in China 3rd ed.,1925)

上海電気測量学堂を卒業して、イギリスに留学する。インペリアル・カレッジ・ロンドンを卒業後に帰国して、電報局の職員となり、後に徐世昌の文案(秘書)となった。

1907年光緒33年)、インドとチベットの国境画定交渉に参加し、その後、東三省電報事宜となる。1909年宣統元年)、郵伝部津浦鉄路局弁事員を経て、袁世凱内閣が成立した1911年(宣統3年)には、交通部秘書に任じられた。

中華民国が成立すると、高恩洪は、川漢鉄路局秘書兼漢口電報局局長となる。1914年民国3年)、川蔵電報局局長に異動する。その翌年には、上海電料管理局局長を務めた。1920年(民国9年)9月、交通部諮議を兼任した。

1922年(民国11年)5月以降、顔恵慶唐紹儀王寵恵汪大燮の各内閣で署理交通総長をつとめた。これにより、直隷派の政治家と目されるようになる。1924年(民国13年)3月、膠澳埠督弁、私立青島大学校長をつとめた翌年10月には、呉佩孚率いる十四省聯軍司令部交通処処長となった。呉佩孚の敗北とともに、高恩洪も下野して実業界に転じる。上海で自動車会社を創設した。

1928年(民国17年)、上海で死去。享年54。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
高凌霨
交通総長(署理)
1922年5月 - 1923年1月
次代
呉毓麟