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== 事跡 ==
== 事跡 ==
日本に留学して[[日本大学]]法科を卒業し、<ref>外務省情報部編(1928)、462頁による(ただし「東京日本大学法科卒業」との記述になっている)。徐主編(2007)、2107頁は、[[東京大学|東京帝国大学]]法科卒業としている。</ref>帰国して東陸銀行経理となる。[[1917年]]([[民国紀元|民国]]6年)12月、[[王士珍]]内閣の財政総長[[王克敏]]の下で、<ref>賀徳霖と王克敏は同郷ゆえに親しかったという。外務省情報部編(1928)、462頁。もっとも王の出身地は[[杭州市|杭州府杭県]]であり、同省出身という程度の間柄である。</ref>財政部公債司司長に任命された。[[1923年]](民国12年)10月、[[高凌イ|高凌&#x9728;]]内閣で財政次長署理となるが、同年10月に辞任する。<ref>外務省情報部編(1928)、462頁。</ref><ref name=Xu>徐主編(2007)、2107頁。</ref>
日本に留学して[[日本大学]]法科を卒業し、<ref>外務省情報部編(1928)、462頁による(ただし「東京日本大学法科卒業」との記述になっている)。徐主編(2007)、2107頁は、[[東京大学|東京帝国大学]]法科卒業としている。</ref>帰国して東陸銀行経理となる。[[1917年]]([[民国紀元|民国]]6年)12月、[[王士珍]]内閣の財政総長[[王克敏]]の下で、<ref>賀徳霖と王克敏は同郷ゆえに親しかったという。外務省情報部編(1928)、462頁。もっとも王の出身地は[[杭州市|杭州府杭県]]であり、同省出身という程度の間柄である。</ref>財政部公債司司長に任命された。[[1923年]](民国12年)10月、[[高凌]]内閣で財政次長署理となるが、同年10月に辞任する。<ref>外務省情報部編(1928)、462頁。</ref><ref name=Xu>徐主編(2007)、2107頁。</ref>


[[1925年]](民国14年)、[[馮玉祥]]の財政顧問となった。[[1926年]](民国15年)3月、[[賈徳耀]]内閣で[[陳錦濤]]の後任として署理財政総長兼塩務処督弁等に就任した。しかし翌月の[[賈徳耀]]内閣崩壊とともに辞任している。さらに[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]が敗北するとともに、賈は[[漢口]]へ逃れたが、[[1927年]]、武漢[[国民政府]]の[[徐謙]]の命令により逮捕された。<ref>外務省情報部編(1928)、463頁による。当時の徐謙は武漢国民政府で司法部長や軍事委員会軍事裁判所長などの要職を務めていた。ただし、なぜ賀徳霖を逮捕したのかについては不明である。</ref>以後、賀徳霖の行方は不明である。<ref>外務省情報部編(1928)、462-463頁。</ref><ref name=Xu/>
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2020年8月14日 (金) 11:27時点における最新版

賀徳霖
プロフィール
出生: 不詳
死去: 不詳
出身地: 清の旗 浙江省寧波府寧波県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 賀德霖
簡体字 贺德霖
拼音 Hè Délín
ラテン字 Ho Te-lin
和名表記: が とくりん
発音転記: ホー ドゥーリン
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賀 徳霖(が とくりん)は、中華民国の政治家。得霖

事跡

[編集]

日本に留学して日本大学法科を卒業し、[1]帰国して東陸銀行経理となる。1917年民国6年)12月、王士珍内閣の財政総長王克敏の下で、[2]財政部公債司司長に任命された。1923年(民国12年)10月、高凌霨内閣で財政次長署理となるが、同年10月に辞任する。[3][4]

1925年(民国14年)、馮玉祥の財政顧問となった。1926年(民国15年)3月、賈徳耀内閣で陳錦濤の後任として署理財政総長兼塩務処督弁等に就任した。しかし翌月の賈徳耀内閣崩壊とともに辞任している。さらに国民軍が敗北するとともに、賈は漢口へ逃れたが、1927年、武漢国民政府徐謙の命令により逮捕された。[5]以後、賀徳霖の行方は不明である。[6][4]

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  1. ^ 外務省情報部編(1928)、462頁による(ただし「東京日本大学法科卒業」との記述になっている)。徐主編(2007)、2107頁は、東京帝国大学法科卒業としている。
  2. ^ 賀徳霖と王克敏は同郷ゆえに親しかったという。外務省情報部編(1928)、462頁。もっとも王の出身地は杭州府杭県であり、同省出身という程度の間柄である。
  3. ^ 外務省情報部編(1928)、462頁。
  4. ^ a b 徐主編(2007)、2107頁。
  5. ^ 外務省情報部編(1928)、463頁による。当時の徐謙は武漢国民政府で司法部長や軍事委員会軍事裁判所長などの要職を務めていた。ただし、なぜ賀徳霖を逮捕したのかについては不明である。
  6. ^ 外務省情報部編(1928)、462-463頁。

参考文献

[編集]
  • 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査部、1928年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
陳錦濤
財政総長(署理)
1926年3月 - 4月
次代
顧維鈞