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2020年8月13日 (木) 09:05時点における版
施履本 | |
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『大満洲帝国名鑑』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: |
1885年1月26日 (清光緒10年12月11日)[1] |
死去: |
1938年(康徳5年)1月17日 満州国 |
出身地: | 清湖北省荊州府江陵県 |
職業: | 外交官・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 施履本 |
簡体字: | 施履本 |
拼音: | Shī Lǚbĕn |
ラテン字: | Shih Lǚ-pen |
和名表記: | し りほん |
発音転記: | シー リューベン |
施 履本(し りほん、中国語: 施履本; 拼音: Shī Lǚbĕn; ウェード式: Shih Lǚ-pen)は、中華民国・満州国の外交官・政治家。別号は長卿。
事績
日本に留学して中央大学を卒業した[2]。1919年(民国8年)7月27日、山東省特派交渉員となり、1923年(民国12年)2月15日まで務めた[3]。同年中に駐日公使代理に任命されている。1932年(大同元年)3月に満州国が建国された後に駐ハルビン吉林交渉署署長に任命され、同年6月に交渉署が北満特派員弁事処に改組されると、北満特派員に改められて留任[4]、ソビエト連邦との折衝を主に担当した。1935年(康徳2年)5月25日、ハルビン特別市長を兼任し[5]、1937年(康徳4年)7月1日にハルビン特別市が浜江省の省轄市に改められたため、施履本は同省省長に移った[6]。翌1938年(康徳5年)1月17日、心臓性喘息のため死去。享年54(満52歳)。
注
- ^ 本記事は『大満洲帝国名鑑』「吉林省」、5頁に従う。なお『東京朝日新聞』1938年1月19日は「享年六十」としており、これに従うならば1879年生まれとなる。一方、『読売新聞』同日は「享年五十六」としており、これに従うならば1883年生まれとなる。
- ^ 「施履本氏逝去」『読売新聞』昭和13年(1938年)1月19日。
- ^ 劉ほか主編(1995)、224-226頁。
- ^ 「駐ハ吉林交渉署を廃す 北満特派員弁事処を建設」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)6月3日。
- ^ 「満州国の人事異動」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月25日
- ^ 「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、2面。
参考文献
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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