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2020年8月13日 (木) 09:05時点における版
張煥相 | |
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プロフィール | |
出生: | 1882年(清光緒8年) |
死去: |
1962年6月2日 中華人民共和国遼寧省撫順市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府(現在の撫順県) |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 張煥相 |
簡体字: | 张焕相 |
拼音: | Zhāng Huànxiāng |
ラテン字: | Chang Huan-hsiang |
和名表記: | ちょう かんしょう |
発音転記: | ジャン フアンシャン |
張 煥相(ちょう かんしょう)は、中華民国、満州国の軍人・政治家。北京政府、奉天派の軍人で、後に満州国で司法部大臣などをつとめた。字は召棠。
事績
日本に留学し、陸軍士官学校第8期歩兵科を卒業した。1911年(宣統3年)に帰国し、以後、奉天派として軍歴を重ねることになる。奉天都督府参議、鎮安上将軍署参謀、盛武将軍公署顧問などを歴任した。
1917年(民国6年)12月、黒竜江督軍鮑貴卿の参謀長に任命される。翌年、中東鉄路哈満段警備司令となった。1919年(民国8年)8月には、東北陸軍第19混成旅旅長兼中東鉄道護路軍副司令に昇進している。1921年(民国10年)、浜江鎮守使を兼ねた。
翌年、中東鉄道護路軍司令に昇格している。1925年(民国14年)、中東鉄道代理督弁兼地畝局局長となった。1927年(民国16年)7月、東省特別区行政長官に転じた。張作霖が爆殺され、張学良が後継した後の翌年11月に、行政長官を辞している。張学良の下では、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官兼空軍代理総司令となった。
満州事変(九・一八事変)の勃発に伴い、張煥相は関東軍の支援を受け、満州国建国工作に参加した。これにより、満州国協和会指導部部長となっている。満州国建国後の1937年(康徳4年)、司法部大臣に任ぜられた。1942年(康徳9年)9月28日、参議府参議に異動している[1]。
満州国滅亡後、張煥相はソ連に逮捕されることは免れた。しかし中華人民共和国建国後の1951年に、反革命鎮圧運動の中で逮捕され、撫順戦犯管理所に収監されている。以後、思想改造を受けることになった。
注
- ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 「譲偽満戦犯自食其力」出典:『文史精華』遼寧警網(遼寧省公安庁ホームページ)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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