「袁宏」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[臨汝県]]令の袁勗([[ |
[[臨汝県]]令の袁勗([[袁瓌]]の弟の袁猷の子)の子として生まれた。若くして父を失って家は貧しく、租税の運搬を自ら生業とした。[[謝尚]]が牛渚に駐屯していたとき、秋の月夜の機におしのびで船遊びに出かけたところ、袁宏が詩を朗唱しているのに出くわした。謝尚は袁宏が歴史を詠んだ詩作に優れていることを知ると、船に上ってかれを迎え、朝まで寝ずに語り合った。このことから袁宏の評判は日増しに高まった。謝尚が安西将軍・[[豫州]][[刺史]]となると、袁宏は召し出されて参軍事となった。 |
||
後に[[大司馬]]の[[桓温]]のもとに転じて、府記室となった。桓温は袁宏の文筆の才能を重んじて、もっぱら書記を総べさせた。ときに「東征賦」を作って、晋の中興の名臣たちを賞賛したが、桓温の父の[[桓彝]]のことに言及していなかった。[[伏滔]]が桓温の府にいたため、このことに苦言を呈したが、袁宏は笑って答えなかった。桓温はこれを知って怒り、青山での宴会の帰りに袁宏を車に同乗させて問い詰めた。袁宏は「宣城(桓彝)の節は信義をもって明らかである」と言って、その場を切り抜けた。また「東征賦」は[[陶侃]]についても言及しておらず、陶侃の子の[[陶範]](陶胡奴)が刃を抽に袁宏を詰問したが、袁宏が「長沙の勲(陶侃が[[杜弢]]の乱を討った功績)は、歴史の賞賛するところである」と答えたので、陶範も刃を収めた。 |
後に[[大司馬]]の[[桓温]]のもとに転じて、府記室となった。桓温は袁宏の文筆の才能を重んじて、もっぱら書記を総べさせた。ときに「東征賦」を作って、晋の中興の名臣たちを賞賛したが、桓温の父の[[桓彝]]のことに言及していなかった。[[伏滔]]が桓温の府にいたため、このことに苦言を呈したが、袁宏は笑って答えなかった。桓温はこれを知って怒り、青山での宴会の帰りに袁宏を車に同乗させて問い詰めた。袁宏は「宣城(桓彝)の節は信義をもって明らかである」と言って、その場を切り抜けた。また「東征賦」は[[陶侃]]についても言及しておらず、陶侃の子の[[陶範]](陶胡奴)が刃を抽に袁宏を詰問したが、袁宏が「長沙の勲(陶侃が[[杜弢]]の乱を討った功績)は、歴史の賞賛するところである」と答えたので、陶範も刃を収めた。 |
2020年8月13日 (木) 09:01時点における版
袁 宏(えん こう、328年頃 - 376年頃)は、中国の東晋の文人・歴史家。『後漢紀』の編纂者として知られる。字は彦伯。本貫は陳郡陽夏県。
経歴
臨汝県令の袁勗(袁瓌の弟の袁猷の子)の子として生まれた。若くして父を失って家は貧しく、租税の運搬を自ら生業とした。謝尚が牛渚に駐屯していたとき、秋の月夜の機におしのびで船遊びに出かけたところ、袁宏が詩を朗唱しているのに出くわした。謝尚は袁宏が歴史を詠んだ詩作に優れていることを知ると、船に上ってかれを迎え、朝まで寝ずに語り合った。このことから袁宏の評判は日増しに高まった。謝尚が安西将軍・豫州刺史となると、袁宏は召し出されて参軍事となった。
後に大司馬の桓温のもとに転じて、府記室となった。桓温は袁宏の文筆の才能を重んじて、もっぱら書記を総べさせた。ときに「東征賦」を作って、晋の中興の名臣たちを賞賛したが、桓温の父の桓彝のことに言及していなかった。伏滔が桓温の府にいたため、このことに苦言を呈したが、袁宏は笑って答えなかった。桓温はこれを知って怒り、青山での宴会の帰りに袁宏を車に同乗させて問い詰めた。袁宏は「宣城(桓彝)の節は信義をもって明らかである」と言って、その場を切り抜けた。また「東征賦」は陶侃についても言及しておらず、陶侃の子の陶範(陶胡奴)が刃を抽に袁宏を詰問したが、袁宏が「長沙の勲(陶侃が杜弢の乱を討った功績)は、歴史の賞賛するところである」と答えたので、陶範も刃を収めた。
後に「三国名臣頌」を作って、後漢末から三国時代にかけての名臣たちを賞賛した[1]。また桓温の北伐に従い、「北征賦」を作った。太元初年、東陽で死去した。享年は49。『後漢紀』30巻や『竹林名士伝』3巻、詩・賦・誄・表など雑文およそ300首が世に伝えられた。
子女
伝記資料
- 『晋書』巻92 列伝第62
日本語訳
- 『後漢紀』中林史朗共訳著 明徳出版社「中国古典新書続編」、1999、ISBN 4-896-19822-0(部分訳)