「駱俊」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: 2017年版ソースエディター |
m Bot作業依頼: 門構え記事の改名に伴うリンク修正依頼 (張闓 (後漢)) - log |
||
10行目: | 10行目: | ||
これを見た袁術は食糧が欠乏したので、使者を派遣して劉寵および駱俊に対して、食糧を輸送するよう要請した。しかし上記の出来事などがあり、駱俊は袁術のことを快く思っていなかったので、断固としてこれを拒んだ。 |
これを見た袁術は食糧が欠乏したので、使者を派遣して劉寵および駱俊に対して、食糧を輸送するよう要請した。しかし上記の出来事などがあり、駱俊は袁術のことを快く思っていなかったので、断固としてこれを拒んだ。 |
||
袁術は戻った使者から駱俊の態度を聞いて激怒し、刺客を派遣して劉寵と駱俊を暗殺させるとともに<ref>[[謝承]]『後漢書』によると、袁術は[[部曲]]将の[[張 |
袁術は戻った使者から駱俊の態度を聞いて激怒し、刺客を派遣して劉寵と駱俊を暗殺させるとともに<ref>[[謝承]]『後漢書』によると、袁術は[[部曲]]将の[[張闓 (後漢)|張闓]]という者を派遣し、兵糧を集めさせた。張闓は酒の席で、駱俊を暗殺した。</ref>、その食糧を奪い陳国を併呑した。 |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年8月13日 (木) 06:36時点における版
駱 俊(らく しゅん、生年不明 - 197年)は、中国後漢末期の武将。字は孝遠。揚州会稽郡烏傷県の人。子は駱統。孫は駱秀。
概要
若くして文武両道の才に富んでいたことから、郡吏となった。まもなく、孝廉に推挙されて尚書郎に任命された。その功績を称えられ、後に陳国の相となり、陳愍王劉寵に仕えた。
建安2年(197年)正月、袁術は仲家皇帝を偽称し、また異母兄の袁紹との争いも続けていた。そのため天下は乱れて、各地に反乱が起こった。陳国付近でも騒然とした状態となり、四方に奸悪な賊衆が蠢いていた。
これを危惧した駱俊が、劉寵に上奏して富国強兵を奨励したため、奸悪な賊衆たちは陳国に侵入することができなかった。また彼が万民に慈悲をもって接し、その身の安全を保障したため、陳国は天災事変に遭遇せず豊かであった。
これを見た袁術は食糧が欠乏したので、使者を派遣して劉寵および駱俊に対して、食糧を輸送するよう要請した。しかし上記の出来事などがあり、駱俊は袁術のことを快く思っていなかったので、断固としてこれを拒んだ。
袁術は戻った使者から駱俊の態度を聞いて激怒し、刺客を派遣して劉寵と駱俊を暗殺させるとともに[1]、その食糧を奪い陳国を併呑した。