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牂牁郡の郡丞だったが、先に反乱を起こしていた有力者の[[雍闓]]に呼応し、[[223年]]夏に自ら[[太守]]と称して蜀に反旗を翻した<ref>「馬忠伝」による。「後主伝」では牂牁太守とある。</ref>。以前から越巂郡において、蜀に反抗的な姿勢をとっていた[[高定]]も、同時期に再び反乱を起こした(「後主伝」)。 |
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2020年8月13日 (木) 06:33時点における版
朱 褒(しゅ ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。益州牂牁郡(または朱提郡)の人。『三国志』蜀志「後主伝」・「馬忠伝」などに記述がある。また『華陽国志』南中志にも記述がある。
生涯
蜀漢を建国した劉備が没した後、南中地方(益州南部の4郡)において反乱を起こした人物の一人である。
牂牁郡の郡丞だったが、先に反乱を起こしていた有力者の雍闓に呼応し、223年夏に自ら太守と称して蜀に反旗を翻した[1]。以前から越巂郡において、蜀に反抗的な姿勢をとっていた高定も、同時期に再び反乱を起こした(「後主伝」)。
朱褒が反乱を起こした理由として、以下のような逸話がある。
諸葛亮は、益州従事の常房(常頎)を派遣させた。常房は益州南部一帯での巡察中に、朱褒が異心を抱いていると考え、その主簿を詰問し斬首した。このため朱褒はこれに怒り、常房を殺害した上で、常房が反乱を企んだため殺害したと誣告した。この容易ならぬ事態を悟った諸葛亮は、朱褒を懐柔するために常房の息子たちを斬首し、その弟4人を越巂郡へ流刑に処して詫びたが、それでも朱褒の気持ちを変えることはできなかった(「後主伝」が引く『魏氏春秋』)。
ただし、裴松之は「常房(常頎)が朱褒によって誣告されたのなら、(諸葛亮ら)為政者は当然この事態を予想する筈で、なぜ無実な(常房の子の)処刑を命じ、邪悪な連中を喜ばせる必要性があるのか。これは(後世の)作り話だと見てよいだろう」と否定的な見解を示している。
諸葛亮は、雍闓たちを支援する呉に鄧芝を送り、外交関係を修復させた上で(「鄧芝伝」)、225年春3月に自ら軍を率いて南中に遠征した(「後主伝」・「諸葛亮伝」)。
諸葛亮が李恢の軍と合流すると(「李恢伝」)、膨れ上がった蜀軍を前に雍闓たちは動揺、まもなく彼らの間に確執が生じて、高定の部下が雍闓を殺害した(「呂凱伝」)。高定もまた諸葛亮らの軍に敗れ処刑された。ついには朱褒の軍勢も駆逐され、同年秋に諸葛亮は南中4郡を平定し(「諸葛亮伝」・「後主伝」)、牂牁太守には馬忠を任命した(「馬忠伝」)[2]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、益州南部三郡の太守の一人として登場する。南蛮王孟獲の扇動に呼応し反乱を起こしている。南蛮征伐の軍を起こした諸葛亮は、まず先に高定を降し、高定とその部下鄂煥に調略をかけて利用し、雍闓を始末させる。さらに諸葛亮は高定を利用するため、朱褒が高定のことを讒言してきたと述べ、高定たちに朱褒を襲撃させ殺害させている。