コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「魯滌平」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「惕」を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (趙恒惕) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
[[1921年]](民国10年)6月20日、両湖巡閲使・[[王占元]]支配に不満を持っていた湖北省の[[蒋作賓]]の要請を受け、[[趙恒惕]]が援鄂自治軍を成立させると第2軍司令に就任し湖北省に進出([[湘鄂戦争]])。8月6日に王占元を下野に追い込んだものの、王を見捨てて介入した呉佩孚との戦いとなる。湖南省の岳州まで攻め込まれ、9月1日、岳州休戦条約により戦争は終結した<ref>{{Cite book | author =田子渝 劉徳軍 | title =中国近代軍閥史詞典 |year=1989 | publisher =档案出版 |page=545}}</ref>。[[1922年]](民国11年)には湖南軍第2師師長へと昇格した。
[[1921年]](民国10年)6月20日、両湖巡閲使・[[王占元]]支配に不満を持っていた湖北省の[[蒋作賓]]の要請を受け、[[趙恒惕]]が援鄂自治軍を成立させると第2軍司令に就任し湖北省に進出([[湘鄂戦争]])。8月6日に王占元を下野に追い込んだものの、王を見捨てて介入した呉佩孚との戦いとなる。湖南省の岳州まで攻め込まれ、9月1日、岳州休戦条約により戦争は終結した<ref>{{Cite book | author =田子渝 劉徳軍 | title =中国近代軍閥史詞典 |year=1989 | publisher =档案出版 |page=545}}</ref>。[[1922年]](民国11年)には湖南軍第2師師長へと昇格した。


[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]での[[譚延ガイ|譚延&#x95D3;]]と[[趙恒惕]]との抗争では、魯滌平は当初中立を保っていた。しかし、部下同士の抗争から次第に趙との対立を深め、譚に接近していく。[[1923年]](民国12年)11月には、譚から湖南討賊軍第2軍軍長兼湘軍総指揮に任命された。しかし、趙との戦いに利無く、譚とともに[[広州市|広州]]の[[孫文]](孫中山)を頼った。
[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]での[[譚延]]と[[趙恒惕]]との抗争では、魯滌平は当初中立を保っていた。しかし、部下同士の抗争から次第に趙との対立を深め、譚に接近していく。[[1923年]](民国12年)11月には、譚から湖南討賊軍第2軍軍長兼湘軍総指揮に任命された。しかし、趙との戦いに利無く、譚とともに[[広州市|広州]]の[[孫文]](孫中山)を頼った。


[[1924年]](民国13年)3月、魯滌平は大元帥孫文から禁煙督弁に任命された。同年10月、湖南建国軍(湖南討賊軍を改組)第2軍軍長兼大本営禁煙督弁となる。[[1925年]](民国14年)、湖南建国軍が[[国民革命軍]]に改組され、魯滌平は第2軍副軍長となった。[[1926年]](民国15年)7月の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]においては、第2軍軍長代理兼右翼指揮に任じられる。翌年5月に正式に第2軍軍長となった。
[[1924年]](民国13年)3月、魯滌平は大元帥孫文から禁煙督弁に任命された。同年10月、湖南建国軍(湖南討賊軍を改組)第2軍軍長兼大本営禁煙督弁となる。[[1925年]](民国14年)、湖南建国軍が[[国民革命軍]]に改組され、魯滌平は第2軍副軍長となった。[[1926年]](民国15年)7月の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]においては、第2軍軍長代理兼右翼指揮に任じられる。翌年5月に正式に第2軍軍長となった。

2020年8月13日 (木) 06:30時点における版

魯滌平
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1887年11月3日
光緒13年9月18日)
死去: 1935年民国24年)1月24日
中華民国の旗 中華民国南京市
出身地: 清の旗 湖南省長沙府寧郷県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 魯滌平
簡体字 鲁涤平
拼音 Lǔ Dípíng
ラテン字 Lu Ti-p'ing
和名表記: ろ じょうへい
発音転記: ルー ディーピン
テンプレートを表示

魯 滌平(ろ じょうへい)は中華民国の軍人。湖南軍(湘軍)に属し、後に国民革命軍国民政府)に参加した。詠安。別号は無煩

事跡

22歳で湖南兵目学堂に入学し、卒業後は湖南新軍に加入した。辛亥革命時には、革命派として参加している。中華民国成立直後に湖南陸軍第6団団長となった。1916年民国5年)には独立第3旅旅長になる。

1921年(民国10年)6月20日、両湖巡閲使・王占元支配に不満を持っていた湖北省の蒋作賓の要請を受け、趙恒惕が援鄂自治軍を成立させると第2軍司令に就任し湖北省に進出(湘鄂戦争)。8月6日に王占元を下野に追い込んだものの、王を見捨てて介入した呉佩孚との戦いとなる。湖南省の岳州まで攻め込まれ、9月1日、岳州休戦条約により戦争は終結した[1]1922年(民国11年)には湖南軍第2師師長へと昇格した。

湖南省での譚延闓趙恒惕との抗争では、魯滌平は当初中立を保っていた。しかし、部下同士の抗争から次第に趙との対立を深め、譚に接近していく。1923年(民国12年)11月には、譚から湖南討賊軍第2軍軍長兼湘軍総指揮に任命された。しかし、趙との戦いに利無く、譚とともに広州孫文(孫中山)を頼った。

1924年(民国13年)3月、魯滌平は大元帥孫文から禁煙督弁に任命された。同年10月、湖南建国軍(湖南討賊軍を改組)第2軍軍長兼大本営禁煙督弁となる。1925年(民国14年)、湖南建国軍が国民革命軍に改組され、魯滌平は第2軍副軍長となった。1926年(民国15年)7月の北伐においては、第2軍軍長代理兼右翼指揮に任じられる。翌年5月に正式に第2軍軍長となった。

1928年(民国17年)5月、魯滌平は武漢国民政府から湖南省政府主席に任命され、中国共産党掃討工作(「清郷剿共」)を推進した。翌年1月、第8師師長を兼任し、さらに討逆軍第5軍軍長に昇進した。3月、中国国民党第3期候補中央執行委員に選出され、4月には武漢衛戍司令となった。

同年8月、江西省政府主席兼第9路軍総指揮に任命された。この際に魯は、紅軍対策として行政督察専員制度を初めて導入し、後に楊永泰により国民政府において大々的に採用されている。1931年(民国20年)12月、浙江省政府主席に任じられ、3年間その地位にあった。1934年(民国23年)12月、軍事参議院副院長に就任する。

1935年(民国24年)1月24日[2]南京において病没。享年49(満47歳)。死後、陸軍上将の位を追贈された。

  1. ^ 田子渝 劉徳軍 (1989). 中国近代軍閥史詞典. 档案出版. p. 545 
  2. ^ 高原「魯滌平」は、1935年1月31日死去としている。

参考文献

魯滌平別影
  • 高原「魯滌平」『民国高級将領列伝 7』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-2292-6 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
陳嘉佑
湖南省政府主席
1928年5月 - 1929年3月
次代
何鍵
先代
朱培徳
江西省政府主席
1929年9月 - 1931年12月
次代
熊式輝
先代
張難先
浙江省政府主席
1931年12月 - 1934年12月
次代
黄紹竑