「傅良佐」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 靳姓の各人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (靳雲鵬) - log |
m Bot作業依頼: 門構え記事の改名に伴うリンク修正依頼 (譚延闓) - log |
||
42行目: | 42行目: | ||
|- |
|- |
||
! {{CHN1912}}([[北京政府]]) |
! {{CHN1912}}([[北京政府]]) |
||
{{先代次代|[[湖南省 (中華民国)|湖南]]督軍|<small>[[1917年]]8月 - 11月</small>|[[譚延 |
{{先代次代|[[湖南省 (中華民国)|湖南]]督軍|<small>[[1917年]]8月 - 11月</small>|[[譚延闓]]|[[譚延闓]]}} |
||
|} |
|} |
||
2020年8月13日 (木) 06:29時点における版
傅良佐 | |
---|---|
Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 不詳[1] |
死去: |
1926年(民国15年) 中華民国天津市 |
出身地: | 清湖南省乾州庁 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 傅良佐 |
簡体字: | 傅良佐 |
拼音: | Fù Liángzuǒ |
ラテン字: | Fu Liang-tso |
和名表記: | ふ りょうさ |
発音転記: | フー リャンズオ |
傅 良佐(ふ りょうさ)は清末民初の軍人。北京政府安徽派に属し、段祺瑞配下の「四大金剛」(他は靳雲鵬・徐樹錚・呉光新)の1人と称される。字は清節。
事績
1894年(光緒20年)、湖南時務学堂で学ぶが、まもなく北洋武備学堂に転学した。卒業後に日本に留学し陸軍士官学校第3期砲兵科を卒業した。帰国後は北洋督練処提調、兵備幇弁を歴任する。1907年(光緒33年)、東三省兵備処擬訂軍制に任ぜられ、まもなく吉林辺務幇弁兼護理督弁事宜に昇進した。その後、袁世凱に招聘され、軍事参議に任ぜられている。
中華民国成立後の1912年(民国元年)に、傅良佐は総統府軍事処処長に任ぜられ、中将に昇進した。同年11月、察哈爾省副都統に任ぜられる。翌年6月、直隷省に転任し、薊楡鎮守使や高等軍事裁判処処長などをつとめた。
1916年(民国5年)5月、傅良佐は陸軍部次長に栄転する。翌月の袁世凱死後、傅は段祺瑞率いる安徽派に属し、「四大金剛」の1人として有力幹部と目されている。翌年7月の張勲復辟では、傅は段を補佐して張勲の掃討戦を敢行した。翌月、この功績もあって湖南督軍兼冠威将軍に任ぜられている。しかし同年11月、傅は陸栄廷ら旧広西派(旧桂系)との戦いに敗北し、湖南を追われてしまう。後に辺防督弁公署参謀長に転じた。
1920年(民国9年)7月の安直戦争の際に、傅良佐は段祺瑞の密使として天津で直隷派との交渉にあたった。しかし、傅はかえって直隷派に逮捕、収監されてしまう。結局、安徽派は安直戦争で敗北し、傅は1922年(民国11年)5月にようやく釈放される。その後、傅は引退して天津に引きこもった。
注
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
|
---|