「浄福寺 (奈良市)」の版間の差分
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寺伝によれば、[[光明皇后]]が病や貧困に苦しむ人々を救済していた際に、[[阿閦如来]]が顕現されたのでこれを喜び、本堂を建立されたという<ref name="shishi">{{Cite book|和書|title=奈良市史 社寺編|editor=奈良市史編集審議会|publisher=[[吉川弘文館]]|year=1985|page=49-50|isbn=4-642-01549-3}}</ref>。 |
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史実は定かではないが、隣接地に[[北山十八間戸]]があるこの地にふさわしい伝承と言える<ref name="shishi" />。 |
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2020年8月13日 (木) 06:25時点における版
浄福寺 | |
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所在地 | 奈良県奈良市興善院町14 |
位置 | 北緯34度41分49.16秒 東経135度50分7.03秒 / 北緯34.6969889度 東経135.8352861度座標: 北緯34度41分49.16秒 東経135度50分7.03秒 / 北緯34.6969889度 東経135.8352861度 |
山号 | 光明山 |
院号 | 興善院(塔頭の名) |
宗旨 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | (伝)奈良時代 |
開基 | 光明皇后 |
中興年 | 寛文6年(1666年) |
中興 | 賢故坊(賢故上人、源故) |
正式名 | 光明山興善院淨福寺賢故坊 |
法人番号 | 3150005000218 |
浄福寺(じょうふくじ)は、奈良県奈良市興善院町にある浄土宗の仏教寺院。山号は迎接山、院号は興善院、坊号は賢故坊。
歴史
寺伝によれば、光明皇后が病や貧困に苦しむ人々を救済していた際に、阿閦如来が顕現されたのでこれを喜び、本堂を建立されたという[1]。 史実は定かではないが、隣接地に北山十八間戸があるこの地にふさわしい伝承と言える[1]。
元法相宗で興福寺の支配下にあったという[2]。 今の寺容が整ったのは、天文10年(1541年)8月の火災の後、寛文6年(1666年)に浄土宗として堂宇を再建して以降である[1]。 これを主導したのが賢故坊[脚注 1]であったため、坊号を賢故坊と呼ぶ[1]。
本堂
棟札により造立時期が判明しており、浄福寺聖誉賢故比丘、寛文6年6月15日と記されている[1]。 その後衰微し破損されるがままとなっていたが、安政4年(1857年)に再興されている[1]。
文化財
本尊
本尊阿弥陀如来が本堂内陣中央に安置される[1]。 鎌倉~室町時代まで遡るともされる[2]古いものだが、光背、台座は江戸時代の再興[1]。
仏像
仏具
周辺
夕日地蔵
当寺の東に、道路を挟んで立つ[1]。永正6年(1509年)[1]、興福寺の僧により[3]造立。 高さ2m程度[2][3]。 地蔵左右に『奉造立供養逆修[脚注 2] 永正六年己巳四月 興福寺住侶権律師浄胤敬白 六十四歳』と刻まれている[2]。 歌人会津八一がこの地蔵について「ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり」と詠っており、木造の歌碑が隣に設置されている[3]。
その他
興善院は菩提院大御堂の東(現菊水楼)にあった塔頭で、蔵俊僧正によって開かれた[2]。蔵俊は聡明で弁舌に長け、八舌僧正とも呼ばれた高僧[2]。治承3年(1179年)9月27年入寂[2]。
ギャラリー
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山門下参道
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山門
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東隣の夕日地蔵
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夕日地蔵会津八一の歌