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'''饒 応祺'''(じょう おうき、''Rao Yingqi''、[[1837年]] - [[1903年]])、字は'''子維'''。[[清]]末の官僚。 |
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[[湖北省]][[恩施トゥチャ族ミャオ族自治州|恩施]]出身。[[1859年]]、[[太平天国]]の[[石達開]]軍が侵攻すると、[[団練]]を率いて城の防衛に協力し、その功で訓導に任命された。[[1862年]]、[[挙人]]となり、知県、刑部主事を歴任した。その後、[[陝甘総督]][[左宗棠]]の幕府に入り、[[回民蜂起]]軍と戦って、金積堡で[[馬化龍]]を破るなど功績を立てた。[[1877年]]に[[陝西省]]の[[大荔県|同州]][[知府]]となり、食糧の増産に成功した。[[1884年]]、[[甘粛省]]の[[張掖市|甘州]]知府となり、ここでも産業の振興に成果をあげた。[[1885年]]に蘭州道となり、[[1889年]]に[[新疆省]]のカシュガル道に転任となり、[[1891年]]に新疆布政使に昇進した。[[1895年]]、甘粛省でまたも[[回族|回民]]の蜂起が発生すると、饒応祺は新疆巡撫代理に任命され、鎮圧にあたった。鎮圧後、功績により正式に巡撫となった。巡撫として土地の開墾と産業の振興に尽力した。[[1900年]]、[[義和団の乱]]が発生すると陝甘総督[[魏光燾]]・[[イリ将軍]][[長庚]]とともに[[東南互保]]に参加して領事館の保護を約束し、[[ロシア帝国|ロシア]]に侵攻の隙を与えなかった。[[1902年]]に安徽巡撫に転任となったが任地に赴く途中で病死した。 |
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==出典== |
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2020年8月13日 (木) 04:30時点における版
饒 応祺(じょう おうき、Rao Yingqi、1837年 - 1903年)、字は子維。清末の官僚。
湖北省恩施出身。1859年、太平天国の石達開軍が侵攻すると、団練を率いて城の防衛に協力し、その功で訓導に任命された。1862年、挙人となり、知県、刑部主事を歴任した。その後、陝甘総督左宗棠の幕府に入り、回民蜂起軍と戦って、金積堡で馬化龍を破るなど功績を立てた。1877年に陝西省の同州知府となり、食糧の増産に成功した。1884年、甘粛省の甘州知府となり、ここでも産業の振興に成果をあげた。1885年に蘭州道となり、1889年に新疆省のカシュガル道に転任となり、1891年に新疆布政使に昇進した。1895年、甘粛省でまたも回民の蜂起が発生すると、饒応祺は新疆巡撫代理に任命され、鎮圧にあたった。鎮圧後、功績により正式に巡撫となった。巡撫として土地の開墾と産業の振興に尽力した。1900年、義和団の乱が発生すると陝甘総督魏光燾・イリ将軍長庚とともに東南互保に参加して領事館の保護を約束し、ロシアに侵攻の隙を与えなかった。1902年に安徽巡撫に転任となったが任地に赴く途中で病死した。
出典
- 『清史稿』巻448・列伝235
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