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「武王后 (秦)」の版間の差分

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時期は不明だが、魏から武王に嫁ぐ。
時期は不明だが、魏から武王に嫁ぐ。


[[紀元前307年]]、武王が22歳で崩御。武王とその正室・武王后との間には子が居なかったため、恵文王の公子間で後継者争いが勃発し、[[魏ゼン|魏冄]]の後押しを受けた[[宣太后|羋八子]]の子の公子稷が[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]として即位。
[[紀元前307年]]、武王が22歳で崩御。武王とその正室・武王后との間には子が居なかったため、恵文王の公子間で後継者争いが勃発し、[[魏冄]]の後押しを受けた[[宣太后|羋八子]]の子の公子稷が[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]として即位。


[[紀元前306年]]から[[紀元前305年]]にかけて、先の後継者争いで敗れた[[二十等爵|庶長]]の公子荘(季君)が中心となって反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、[[恵文后 (秦)|恵文后]]もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国の[[魏 (戦国)|魏]]に放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長荘の反乱)。この後の事跡は歴史に残っていない。
[[紀元前306年]]から[[紀元前305年]]にかけて、先の後継者争いで敗れた[[二十等爵|庶長]]の公子荘(季君)が中心となって反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、[[恵文后 (秦)|恵文后]]もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国の[[魏 (戦国)|魏]]に放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長荘の反乱)。この後の事跡は歴史に残っていない。

2020年8月13日 (木) 04:29時点における版

武王后
の王后

別称 悼武王后
配偶者 武王
氏族 姫姓魏氏
出身諸侯国
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武王后(ぶおうこう、生没年不詳)は、女公子の王后。中国戦国時代の秦の第27代君主、第2代の武王の正室。史記によると悼武王后とも書く。

経歴

時期は不明だが、魏から武王に嫁ぐ。

紀元前307年、武王が22歳で崩御。武王とその正室・武王后との間には子が居なかったため、恵文王の公子間で後継者争いが勃発し、魏冄の後押しを受けた羋八子の子の公子稷が昭襄王として即位。

紀元前306年から紀元前305年にかけて、先の後継者争いで敗れた庶長の公子荘(季君)が中心となって反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、恵文后もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国のに放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長荘の反乱)。この後の事跡は歴史に残っていない。

参考文献