「恵文后 (秦)」の版間の差分
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[[紀元前307年]]、武王が22歳で崩御。武王とその正室・[[武王后 (秦)|武王后]]との間に子が居なかったため、恵文王の公子間で後継者争いが勃発し、[[魏冄]]の後押しを受けた[[宣太后|羋八子]]の子、公子稷が昭襄王として即位。 |
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[[紀元前306年]]から[[紀元前305年]]にかけて、先の後継者争いで敗れた[[二十等爵|庶長]]の公子荘(季君)が中心となって反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、恵文后もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国の[[魏 (戦国)|魏]]に放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長荘の反乱)。 |
2020年8月13日 (木) 04:29時点における版
恵文后 | |
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秦の王后 | |
配偶者 | 恵文王 |
子女 | 武王 |
氏族 | 魏姓(一説に姫姓魏氏) |
出身諸侯国 | 楚(一説に魏) |
恵文后(けいぶんこう、? - 紀元前305年)は、中国戦国時代の秦の王后。史記集解によると楚の出身で魏姓。本名と両親は不明。秦の初代の王・恵文王の正室で武王の母親。昭襄王の義理の母にあたる。
経歴
紀元前334年、恵文王に嫁ぎ、魏夫人と称される。
紀元前329年、恵文王の長子、公子蕩(後の武王)を産む。
紀元前307年、武王が22歳で崩御。武王とその正室・武王后との間に子が居なかったため、恵文王の公子間で後継者争いが勃発し、魏冄の後押しを受けた羋八子の子、公子稷が昭襄王として即位。
紀元前306年から紀元前305年にかけて、先の後継者争いで敗れた庶長の公子荘(季君)が中心となって反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、恵文后もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国の魏に放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長荘の反乱)。