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「羋戎」の版間の差分

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秦の昭襄王の時代に'''華陽君'''の号を与えられ仕えた。初期は姉の宣太后と異父同母兄弟の魏冄と合わせて三貴、後には魏冄、甥の涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)と合わせて四貴と呼ばれ、長期に渡り秦国内で王と並ぶ権力を持った<ref>『戦国策』秦策三:応侯謂昭王:利尽帰於陶;国之幣帛,竭入太后之家,竟内之利,分移華陽。</ref>。
秦の昭襄王の時代に'''華陽君'''の号を与えられ仕えた。初期は姉の宣太后と異父同母兄弟の魏冄と合わせて三貴、後には魏冄、甥の涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)と合わせて四貴と呼ばれ、長期に渡り秦国内で王と並ぶ権力を持った<ref>『戦国策』秦策三:応侯謂昭王:利尽帰於陶;国之幣帛,竭入太后之家,竟内之利,分移華陽。</ref>。


羋戎は楚にいた頃に罪を犯し、[[周|東周]]へ逃れた。楚の[[懐王]]22年([[紀元前307年]])の時、急逝した秦の[[武王 (秦)|武王]]の後を内部闘争の末に宣太后の異父同母弟である[[魏ゼン|魏冄]]の支持を受けた公子稷(後の昭襄王)が他の公子らを退け、昭襄王となり秦王を継いだ<ref>『[[史記]]』穣侯列伝:武王卒,諸弟争立,唯魏厓力為能立昭王。昭王即位,以厓為将軍,衛咸陽。誅季君之乱,而逐武王后出之魏,昭王諸兄弟不善者皆滅之,威振秦国。昭王少,宣太后自治,任魏厓為政。</ref><ref>『古本[[竹書紀年]]』魏紀:秦内乱,殺其太后及公子雍・公子壮。</ref>。その際、宣太后の招きで秦に入り、左丞相として魏冄と共に秦の朝政を取り仕切った<ref>『史記』穣侯列伝</ref><ref>『史記』范睢[[蔡沢]]列伝</ref>。
羋戎は楚にいた頃に罪を犯し、[[周|東周]]へ逃れた。楚の[[懐王]]22年([[紀元前307年]])の時、急逝した秦の[[武王 (秦)|武王]]の後を内部闘争の末に宣太后の異父同母弟である[[魏冄]]の支持を受けた公子稷(後の昭襄王)が他の公子らを退け、昭襄王となり秦王を継いだ<ref>『[[史記]]』穣侯列伝:武王卒,諸弟争立,唯魏厓力為能立昭王。昭王即位,以厓為将軍,衛咸陽。誅季君之乱,而逐武王后出之魏,昭王諸兄弟不善者皆滅之,威振秦国。昭王少,宣太后自治,任魏厓為政。</ref><ref>『古本[[竹書紀年]]』魏紀:秦内乱,殺其太后及公子雍・公子壮。</ref>。その際、宣太后の招きで秦に入り、左丞相として魏冄と共に秦の朝政を取り仕切った<ref>『史記』穣侯列伝</ref><ref>『史記』范睢[[蔡沢]]列伝</ref>。


[[紀元前298年]]、[[孟嘗君]]主導で結成された[[田斉|斉]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]の三国合従軍が[[函谷関]]に攻め寄せた際は秦軍の総司令官を務め、斉の[[匡章]]率いる合従軍の攻撃から函谷関を守っている([[函谷関の戦い (紀元前298年)|函谷関の戦い]])。
[[紀元前298年]]、[[孟嘗君]]主導で結成された[[田斉|斉]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]の三国合従軍が[[函谷関]]に攻め寄せた際は秦軍の総司令官を務め、斉の[[匡章]]率いる合従軍の攻撃から函谷関を守っている([[函谷関の戦い (紀元前298年)|函谷関の戦い]])。

2020年8月13日 (木) 04:28時点における版

羋 戎(び じゅう、紀元前332年 - 紀元前262年)は、中国戦国時代末期の公族政治家[1]。秦の昭襄王の生母の宣太后恵文君夫人)の弟。

生涯

秦の昭襄王の時代に華陽君の号を与えられ仕えた。初期は姉の宣太后と異父同母兄弟の魏冄と合わせて三貴、後には魏冄、甥の涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)と合わせて四貴と呼ばれ、長期に渡り秦国内で王と並ぶ権力を持った[2]

羋戎は楚にいた頃に罪を犯し、東周へ逃れた。楚の懐王22年(紀元前307年)の時、急逝した秦の武王の後を内部闘争の末に宣太后の異父同母弟である魏冄の支持を受けた公子稷(後の昭襄王)が他の公子らを退け、昭襄王となり秦王を継いだ[3][4]。その際、宣太后の招きで秦に入り、左丞相として魏冄と共に秦の朝政を取り仕切った[5][6]

紀元前298年孟嘗君主導で結成されたの三国合従軍が函谷関に攻め寄せた際は秦軍の総司令官を務め、斉の匡章率いる合従軍の攻撃から函谷関を守っている(函谷関の戦い)。

姉の宣太后の元、異父同母兄弟の魏冄、甥の涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)と合わせて四貴と呼ばれ秦王昭襄王をも凌ぐ権力を秦国内で保ち続けていたが、紀元前265年范雎の奏上で宣太后が昭襄王によって廃位、羋戎ら四貴も罷免され、その権力を奪われると関中から追放され封地にて余生を過ごすこととなり、羋戎は紀元前262年にこの世を去った[7]。昭襄王はこれにより自らの王権体制を整えることとなり、政権が一本化した秦の力は六国をより圧倒する事となる。

脚注

  1. ^ 戦国策』秦策三
  2. ^ 『戦国策』秦策三:応侯謂昭王:利尽帰於陶;国之幣帛,竭入太后之家,竟内之利,分移華陽。
  3. ^ 史記』穣侯列伝:武王卒,諸弟争立,唯魏厓力為能立昭王。昭王即位,以厓為将軍,衛咸陽。誅季君之乱,而逐武王后出之魏,昭王諸兄弟不善者皆滅之,威振秦国。昭王少,宣太后自治,任魏厓為政。
  4. ^ 『古本竹書紀年』魏紀:秦内乱,殺其太后及公子雍・公子壮。
  5. ^ 『史記』穣侯列伝
  6. ^ 『史記』范睢蔡沢列伝
  7. ^ 『史記』范雎蔡沢列伝:范雎日益親,復説用数年矣,因請間説曰:…聞秦之有太后・穣侯・華陽・高陵・涇陽,不聞其有王也…今臣聞秦太后・穣侯用事,高陵、華陽、涇陽佐之,卒無秦王,此亦淖歯・李兌之類也…昭王聞之大懼,曰:善。於是廃太后,逐穣侯・高陵・華陽・涇陽君於関外。

参考文献