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「馮慈明」の版間の差分

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北斉の尚書右僕射の[[馮子ソウ|馮子琮]]の子として生まれた。14歳のとき、淮陽王開府参軍事となった。まもなく司州主簿に任じられ、中書舎人に進んだ。[[北周]]が北斉を滅ぼすと、帥都督に任じられた。隋が建国されると、司空司倉参軍事に任じられた。行台礼部侍郎に累進した。晋王[[煬帝|楊広]]が[[并州]]総管となると、慈明はその下で司士となった。後に吏部員外郎を経て、内史舎人を兼ねた。煬帝が即位すると、母が死去して服喪のために職を去った。煬帝に憎まれて伊吾鎮副に左遷され、赴任しないうちに交趾郡丞に転じた。[[613年]]([[大業]]9年)、召還されて入朝した。尚書兵曹郎に任じられ、朝請大夫の位を加えられた。[[617年]](大業13年)、摂江都郡丞事をつとめた。
北斉の尚書右僕射の[[馮子ソウ|馮子琮]]の子として生まれた。14歳のとき、淮陽王開府参軍事となった。まもなく司州主簿に任じられ、中書舎人に進んだ。[[北周]]が北斉を滅ぼすと、帥都督に任じられた。隋が建国されると、司空司倉参軍事に任じられた。行台礼部侍郎に累進した。晋王[[煬帝|楊広]]が[[并州]]総管となると、慈明はその下で司士となった。後に吏部員外郎を経て、内史舎人を兼ねた。煬帝が即位すると、母が死去して服喪のために職を去った。煬帝に憎まれて伊吾鎮副に左遷され、赴任しないうちに交趾郡丞に転じた。[[613年]]([[大業]]9年)、召還されて入朝した。尚書兵曹郎に任じられ、朝請大夫の位を加えられた。[[617年]](大業13年)、摂江都郡丞事をつとめた。


[[李密 (隋)|李密]]が東都[[洛陽]]に迫ると、慈明は瀍・洛の兵を集めて、李密を追撃した。鄢陵で李密の部下の崔枢に捕らえられた。李密に説得されたが応じず、ひそかに江都に使者を送って、反乱軍の情勢を煬帝のもとに知らせた。李密はそのことを知っても、節義に感じて慈明を許した。しかし[[テキ譲|翟譲]]の怒りを買って乱刃のもとに斬り殺された。享年は68。梁郡通守の楊汪がその死を煬帝に上奏し、銀青光禄大夫の位を追贈された。越王[[恭帝トウ|楊侗]]が帝を称すると、さらに柱国・戸部尚書の位を追贈され、昌黎郡公に追封された。[[諡]]は壮武といった。
[[李密 (隋)|李密]]が東都[[洛陽]]に迫ると、慈明は瀍・洛の兵を集めて、李密を追撃した。鄢陵で李密の部下の崔枢に捕らえられた。李密に説得されたが応じず、ひそかに江都に使者を送って、反乱軍の情勢を煬帝のもとに知らせた。李密はそのことを知っても、節義に感じて慈明を許した。しかし[[翟譲]]の怒りを買って乱刃のもとに斬り殺された。享年は68。梁郡通守の楊汪がその死を煬帝に上奏し、銀青光禄大夫の位を追贈された。越王[[恭帝トウ|楊侗]]が帝を称すると、さらに柱国・戸部尚書の位を追贈され、昌黎郡公に追封された。[[諡]]は壮武といった。


== 子女 ==
== 子女 ==

2020年8月13日 (木) 03:04時点における版

馮 慈明(ふう じめい、550年 - 617年)は、北斉からにかけての人物。は無佚。本貫長楽郡信都県

経歴

北斉の尚書右僕射の馮子琮の子として生まれた。14歳のとき、淮陽王開府参軍事となった。まもなく司州主簿に任じられ、中書舎人に進んだ。北周が北斉を滅ぼすと、帥都督に任じられた。隋が建国されると、司空司倉参軍事に任じられた。行台礼部侍郎に累進した。晋王楊広并州総管となると、慈明はその下で司士となった。後に吏部員外郎を経て、内史舎人を兼ねた。煬帝が即位すると、母が死去して服喪のために職を去った。煬帝に憎まれて伊吾鎮副に左遷され、赴任しないうちに交趾郡丞に転じた。613年大業9年)、召還されて入朝した。尚書兵曹郎に任じられ、朝請大夫の位を加えられた。617年(大業13年)、摂江都郡丞事をつとめた。

李密が東都洛陽に迫ると、慈明は瀍・洛の兵を集めて、李密を追撃した。鄢陵で李密の部下の崔枢に捕らえられた。李密に説得されたが応じず、ひそかに江都に使者を送って、反乱軍の情勢を煬帝のもとに知らせた。李密はそのことを知っても、節義に感じて慈明を許した。しかし翟譲の怒りを買って乱刃のもとに斬り殺された。享年は68。梁郡通守の楊汪がその死を煬帝に上奏し、銀青光禄大夫の位を追贈された。越王楊侗が帝を称すると、さらに柱国・戸部尚書の位を追贈され、昌黎郡公に追封された。は壮武といった。

子女

  • 馮忱
  • 馮惇
  • 馮怦

伝記資料