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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[王僧虔]]([[王曇首]]の子)の子として生まれた。8歳のとき、外祖父にあたる宋の江夏王[[劉義恭]]により内斎に迎えられ、欲しい宝物を与えることを約束されると、王慈は琴と石硯を取ってみせたため、劉義恭に賞賛された。王慈は幼くして従弟の[[王倹 (南朝斉)|王倹]]とともに学問に励んだ。秘書郎に任じられ、太子舎人に転じた。安成王[[順帝 (南朝宋)|劉準]]の下で撫軍主簿となり、記室に転じた。秘書丞となり、司徒左西属や右長史をつとめた。[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]を代行した。黄門郎となり、太子中庶子に転じ、射声校尉を兼ねた。斉の安成王[[蕭コウ|蕭暠]]の下で冠軍長史となり、豫章王[[蕭嶷]]の下で司空長史をつとめた。司徒左長史となり、[[侍中]]を兼ねた。輔国将軍・[[豫章郡]]内史として出向した。[[485年]]([[永明]]3年)に父が死去すると、官を辞して喪に服した。喪が明けると、建武将軍・[[呉郡]]太守として再起した。寧朔将軍・大司馬長史に転じた。再び侍中の位を受け、歩兵校尉を兼ねた。
[[王僧虔]]([[王曇首]]の子)の子として生まれた。8歳のとき、外祖父にあたる宋の江夏王[[劉義恭]]により内斎に迎えられ、欲しい宝物を与えることを約束されると、王慈は琴と石硯を取ってみせたため、劉義恭に賞賛された。王慈は幼くして従弟の[[王倹 (南朝斉)|王倹]]とともに学問に励んだ。秘書郎に任じられ、太子舎人に転じた。安成王[[順帝 (南朝宋)|劉準]]の下で撫軍主簿となり、記室に転じた。秘書丞となり、司徒左西属や右長史をつとめた。[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]を代行した。黄門郎となり、太子中庶子に転じ、射声校尉を兼ねた。斉の安成王[[蕭暠]]の下で冠軍長史となり、豫章王[[蕭嶷]]の下で司空長史をつとめた。司徒左長史となり、[[侍中]]を兼ねた。輔国将軍・[[豫章郡]]内史として出向した。[[485年]]([[永明]]3年)に父が死去すると、官を辞して喪に服した。喪が明けると、建武将軍・[[呉郡]]太守として再起した。寧朔将軍・大司馬長史に転じた。再び侍中の位を受け、歩兵校尉を兼ねた。


王慈は足を患っていたため、斉の[[武帝 (南朝斉)|武帝]]により参朝のさいの乗車を許可された。冠軍将軍・司徒左長史に転じた。
王慈は足を患っていたため、斉の[[武帝 (南朝斉)|武帝]]により参朝のさいの乗車を許可された。冠軍将軍・司徒左長史に転じた。

2020年8月13日 (木) 03:01時点における版

王 慈(おう じ、451年 - 491年)は、南朝宋からにかけての官僚は伯宝。本貫琅邪郡臨沂県

経歴

王僧虔王曇首の子)の子として生まれた。8歳のとき、外祖父にあたる宋の江夏王劉義恭により内斎に迎えられ、欲しい宝物を与えることを約束されると、王慈は琴と石硯を取ってみせたため、劉義恭に賞賛された。王慈は幼くして従弟の王倹とともに学問に励んだ。秘書郎に任じられ、太子舎人に転じた。安成王劉準の下で撫軍主簿となり、記室に転じた。秘書丞となり、司徒左西属や右長史をつとめた。新安郡太守を代行した。黄門郎となり、太子中庶子に転じ、射声校尉を兼ねた。斉の安成王蕭暠の下で冠軍長史となり、豫章王蕭嶷の下で司空長史をつとめた。司徒左長史となり、侍中を兼ねた。輔国将軍・豫章郡内史として出向した。485年永明3年)に父が死去すると、官を辞して喪に服した。喪が明けると、建武将軍・呉郡太守として再起した。寧朔将軍・大司馬長史に転じた。再び侍中の位を受け、歩兵校尉を兼ねた。

王慈は足を患っていたため、斉の武帝により参朝のさいの乗車を許可された。冠軍将軍・司徒左長史に転じた。

491年(永明9年)、斉の江夏王蕭鋒南徐州刺史となると、王慈は冠軍将軍・東海郡太守となり、南徐州の事務を代行した。召還されて冠軍将軍・廬陵王中軍長史となった。任につかないうちに、死去した。享年は41。太常の位を追贈された。は懿子といった。

妻子

  • 劉氏(劉秉の娘)

  • 王観(斉の武帝の長女の呉県公主を妻に迎えた)
  • 王泰

伝記資料