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「柳霞」の版間の差分

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[[梁 (南朝)|南朝梁]]の臨川王諮議参軍・[[宜都郡]][[太守]]の[[柳季遠]]([[柳元景]]の弟の柳叔珍の子)の子として生まれた。幼くして文学を好み、12歳のときに南朝梁の西昌侯[[蕭淵藻]]と面会して、その所作を賞賛された。廬陵王[[蕭続]]が[[雍州]][[刺史]]となると、柳霞は召されて主簿となった。邵陵王[[蕭綸]]の下で平西府法曹参軍となり、外兵に転じ、尚書工部郎に任じられた。[[謝挙]]が尚書僕射となり、柳霞を召し出して語り合うと、感心して「江漢の英霊、ここにおいて見るかな」と評した。
[[梁 (南朝)|南朝梁]]の臨川王諮議参軍・[[宜都郡]][[太守]]の[[柳季遠]]([[柳元景]]の弟の柳叔珍の子)の子として生まれた。幼くして文学を好み、12歳のときに南朝梁の西昌侯[[蕭淵藻]]と面会して、その所作を賞賛された。廬陵王[[蕭続]]が[[雍州]][[刺史]]となると、柳霞は召されて主簿となった。邵陵王[[蕭綸]]の下で平西府法曹参軍となり、外兵に転じ、尚書工部郎に任じられた。[[謝挙]]が尚書僕射となり、柳霞を召し出して語り合うと、感心して「江漢の英霊、ここにおいて見るかな」と評した。


岳陽王[[蕭サツ|蕭詧]]が雍州に入ると、柳霞はその下で治中となり、まもなく別駕に転じた。蕭詧が[[襄陽郡 (中国)|襄陽]]で[[西魏]]に藩属すると、柳霞は吏部郎・員外散騎常侍の位を受けた。まもなく[[車騎将軍|車騎大将軍]]・[[儀同三司]]・大都督となり、聞喜県公の[[爵位]]を受けた。さらに持節・[[侍中]]・[[驃騎将軍|驃騎大将軍]]・[[開府儀同三司]]の位を受けた。蕭詧が[[荊州区|江陵]]で帝を称すると、柳霞は襄陽から西魏に帰順した。まもなく郷里に隠棲し、[[宇文泰]]や[[北周]]の[[明帝 (北周)|明帝]]によるたびたびの召命にも応じなかった。蕭詧が死去すると、柳霞は哀哭の礼をささげて、旧主の喪に服した。北周の[[保定 (北周)|保定]]年間にまた召命があると、柳霞ははじめて入朝した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・都督[[霍州]]諸軍事・霍州刺史に任じられた。[[天和 (北周)|天和]]年間、死去した。享年は72。[[578年]]([[宣政]]元年)、金安二州刺史の位を追贈された。
岳陽王[[蕭詧]]が雍州に入ると、柳霞はその下で治中となり、まもなく別駕に転じた。蕭詧が[[襄陽郡 (中国)|襄陽]]で[[西魏]]に藩属すると、柳霞は吏部郎・員外散騎常侍の位を受けた。まもなく[[車騎将軍|車騎大将軍]]・[[儀同三司]]・大都督となり、聞喜県公の[[爵位]]を受けた。さらに持節・[[侍中]]・[[驃騎将軍|驃騎大将軍]]・[[開府儀同三司]]の位を受けた。蕭詧が[[荊州区|江陵]]で帝を称すると、柳霞は襄陽から西魏に帰順した。まもなく郷里に隠棲し、[[宇文泰]]や[[北周]]の[[明帝 (北周)|明帝]]によるたびたびの召命にも応じなかった。蕭詧が死去すると、柳霞は哀哭の礼をささげて、旧主の喪に服した。北周の[[保定 (北周)|保定]]年間にまた召命があると、柳霞ははじめて入朝した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・都督[[霍州]]諸軍事・霍州刺史に任じられた。[[天和 (北周)|天和]]年間、死去した。享年は72。[[578年]]([[宣政]]元年)、金安二州刺史の位を追贈された。


10人の男子があり、[[柳靖]]と[[柳荘]]が最も名を知られた。
10人の男子があり、[[柳靖]]と[[柳荘]]が最も名を知られた。

2020年8月13日 (木) 02:59時点における版

柳 霞(柳遐、りゅう か、生没年不詳)は、中国南北朝時代の人物。は子昇。本貫河東郡解県

経歴

南朝梁の臨川王諮議参軍・宜都郡太守柳季遠柳元景の弟の柳叔珍の子)の子として生まれた。幼くして文学を好み、12歳のときに南朝梁の西昌侯蕭淵藻と面会して、その所作を賞賛された。廬陵王蕭続雍州刺史となると、柳霞は召されて主簿となった。邵陵王蕭綸の下で平西府法曹参軍となり、外兵に転じ、尚書工部郎に任じられた。謝挙が尚書僕射となり、柳霞を召し出して語り合うと、感心して「江漢の英霊、ここにおいて見るかな」と評した。

岳陽王蕭詧が雍州に入ると、柳霞はその下で治中となり、まもなく別駕に転じた。蕭詧が襄陽西魏に藩属すると、柳霞は吏部郎・員外散騎常侍の位を受けた。まもなく車騎大将軍儀同三司・大都督となり、聞喜県公の爵位を受けた。さらに持節・侍中驃騎大将軍開府儀同三司の位を受けた。蕭詧が江陵で帝を称すると、柳霞は襄陽から西魏に帰順した。まもなく郷里に隠棲し、宇文泰北周明帝によるたびたびの召命にも応じなかった。蕭詧が死去すると、柳霞は哀哭の礼をささげて、旧主の喪に服した。北周の保定年間にまた召命があると、柳霞ははじめて入朝した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・都督霍州諸軍事・霍州刺史に任じられた。天和年間、死去した。享年は72。578年宣政元年)、金安二州刺史の位を追贈された。

10人の男子があり、柳靖柳荘が最も名を知られた。

伝記資料