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'''蕭 統'''(しょう とう、[[中興 (南朝斉)|中興]]元年([[501年]])[[9月 (旧暦)|9月]] - [[中大通]]3年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]]([[531年]][[5月7日]]))は、[[中国]][[南北朝時代 (中国)|南朝]]の[[梁 (南朝)|梁]]の皇族。[[字]]は'''徳施'''。[[襄陽市|襄陽]]で生まれた。武帝[[蕭衍]]の長子で皇太子に立てられていたが、父に先立って死去した。'''昭明太子'''(しょうめいたいし)の[[諡|諡号]]で知られる。母は貴嬪(側室)[[丁令光]]。廃帝豫章王[[蕭棟]]の祖父、[[後梁 (南朝)|後梁]]の宣帝[[蕭詧]]の父である。 |
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頭脳明晰であり、3歳で『[[論語]]』『[[孝経]]』を読み、5歳で[[五経]]を全て読破したと言われる聡明な人物で、武帝の皇太子として、成人してからは国政に携わり、民衆に仁政を行った。また、文章家としても後世に知られている。 |
頭脳明晰であり、3歳で『[[論語]]』『[[孝経]]』を読み、5歳で[[五経]]を全て読破したと言われる聡明な人物で、武帝の皇太子として、成人してからは国政に携わり、民衆に仁政を行った。また、文章家としても後世に知られている。 |
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後、舟遊びの際に水に転落し、それが元で病気を発して死去した。またその蔵書も、[[江陵県|江陵]]の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]が[[西魏]]によって滅ぼされた時に灰燼に帰した。 |
後、舟遊びの際に水に転落し、それが元で病気を発して死去した。またその蔵書も、[[江陵県|江陵]]の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]が[[西魏]]によって滅ぼされた時に灰燼に帰した。 |
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その後、息子である[[蕭詧]]が江陵で、[[西魏]]政権の手によって[[後梁 (南朝)|後梁]]の[[天子]]として即位させられた時に、蕭統にも'''高宗昭明帝'''と追号された。 |
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2020年8月13日 (木) 02:58時点における版
蕭 統(しょう とう、中興元年(501年)9月 - 中大通3年4月6日(531年5月7日))は、中国南朝の梁の皇族。字は徳施。襄陽で生まれた。武帝蕭衍の長子で皇太子に立てられていたが、父に先立って死去した。昭明太子(しょうめいたいし)の諡号で知られる。母は貴嬪(側室)丁令光。廃帝豫章王蕭棟の祖父、後梁の宣帝蕭詧の父である。
頭脳明晰であり、3歳で『論語』『孝経』を読み、5歳で五経を全て読破したと言われる聡明な人物で、武帝の皇太子として、成人してからは国政に携わり、民衆に仁政を行った。また、文章家としても後世に知られている。
蔵書3万巻を持っていたと言われる蕭統の傍には優れた文人が集まり、それらの助けを借りて各種の名文を集めた『文選』を編纂した。
後、舟遊びの際に水に転落し、それが元で病気を発して死去した。またその蔵書も、江陵の元帝が西魏によって滅ぼされた時に灰燼に帰した。
その後、息子である蕭詧が江陵で、西魏政権の手によって後梁の天子として即位させられた時に、蕭統にも高宗昭明帝と追号された。