コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「元定」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
8行目: 8行目:
[[557年]]、北周が建国されると、元定は長湖郡公に降封された。[[明帝 (北周)|明帝]]が即位すると、[[岷州]][[刺史]]に任ぜられ、[[羌|羌族]]の首領たちと親交を深めた。[[保定 (北周)|保定]]年間、左宮伯中大夫の位を受けた。長らくして、左武伯中大夫に転じ、位は[[大将軍]]に進んだ。
[[557年]]、北周が建国されると、元定は長湖郡公に降封された。[[明帝 (北周)|明帝]]が即位すると、[[岷州]][[刺史]]に任ぜられ、[[羌|羌族]]の首領たちと親交を深めた。[[保定 (北周)|保定]]年間、左宮伯中大夫の位を受けた。長らくして、左武伯中大夫に転じ、位は[[大将軍]]に進んだ。


[[567年]]、[[陳 (南朝)|陳]]の[[湘州]]刺史の[[華皎]]が[[後梁 (南朝)|後梁]]に降ると、後梁の[[蕭|明帝]]はこれを機会に領土拡大を企図し、北周に遣使して援兵を請うた。北周は衛公[[宇文直]]と元定を派遣した。華皎が水軍を率い、元定が陸軍を率い、宇文直が全軍を総督して夏口にいたった。陳軍は郢州を堅守して屈服しなかった。宇文直は元定に数千の兵を率いて郢州を包囲させた。陳は[[淳于量]]・[[徐度]]・[[呉明徹]]らに水陸で周軍をはばませた。淳于量らはすでに[[長江]]を渡った元定の軍を無視して、華皎の率いる水軍と交戦した。華皎の率いる軍は、猜疑のために混乱して、陳軍に敗れた。華皎は単身脱出して後梁の保護を求めた。元定は敵中で孤立し、陳軍が水陸から迫ってきた。元定は竹を切って脱出路を開き、進みながら戦い、湘州に向かおうとしたが、湘州はすでに陥落していた。徐度らは元定の窮状を知って、使者を派遣し講和を申し入れて騙し討ちしようと図った。元定はその申し入れを偽りだと疑ったが、長史の長孫隆や諸将らの多くは元定に講和を勧めた。盟約して武装解除し、船に乗ったところを捕らえられた。部下とともに捕虜となり、丹陽に送られた。
[[567年]]、[[陳 (南朝)|陳]]の[[湘州]]刺史の[[華皎]]が[[後梁 (南朝)|後梁]]に降ると、後梁の[[蕭|明帝]]はこれを機会に領土拡大を企図し、北周に遣使して援兵を請うた。北周は衛公[[宇文直]]と元定を派遣した。華皎が水軍を率い、元定が陸軍を率い、宇文直が全軍を総督して夏口にいたった。陳軍は郢州を堅守して屈服しなかった。宇文直は元定に数千の兵を率いて郢州を包囲させた。陳は[[淳于量]]・[[徐度]]・[[呉明徹]]らに水陸で周軍をはばませた。淳于量らはすでに[[長江]]を渡った元定の軍を無視して、華皎の率いる水軍と交戦した。華皎の率いる軍は、猜疑のために混乱して、陳軍に敗れた。華皎は単身脱出して後梁の保護を求めた。元定は敵中で孤立し、陳軍が水陸から迫ってきた。元定は竹を切って脱出路を開き、進みながら戦い、湘州に向かおうとしたが、湘州はすでに陥落していた。徐度らは元定の窮状を知って、使者を派遣し講和を申し入れて騙し討ちしようと図った。元定はその申し入れを偽りだと疑ったが、長史の長孫隆や諸将らの多くは元定に講和を勧めた。盟約して武装解除し、船に乗ったところを捕らえられた。部下とともに捕虜となり、丹陽に送られた。


数カ月後、憂憤のうちに発病して死去した。子の元楽が後を嗣いだ。
数カ月後、憂憤のうちに発病して死去した。子の元楽が後を嗣いだ。

2020年8月13日 (木) 02:54時点における版

元 定(げん てい、生年不詳 - 567年頃)は、中国北魏から北周にかけての軍人は願安。本貫河南郡洛陽県

経歴

征虜将軍・鉅鹿郡守の元道龍の子として生まれた。成長すると寡黙で沈着剛毅な人物となった。528年爾朱天光の下で関中隴西の乱を討ち、襄威将軍に任ぜられた。534年賀抜岳が殺害されると、元定は宇文泰の下で侯莫陳悦を討ち、功績により平遠将軍・歩兵校尉に任ぜられた。孝武帝が関中に入ると、高邑県男に封ぜられた。潼関を攻撃し、回洛城を落とし、爵位は伯に進んだ。前将軍・太中大夫の位を加えられた。537年、宇文泰の下で竇泰を討ち、弘農沙苑の戦いに参加して、先鋒をつとめた。538年河橋の戦いに参加した。前後の功績により都督・征東将軍・金紫光禄大夫・帥都督に累進した。

543年邙山の戦いでは、元定は敵の矟を奪って奮戦し、当たるところ敵なしであった。宇文泰はこれを見て、論功最上として、厚く賞した。547年河北郡太守に任ぜられ、大都督・通直散騎常侍の位を加えられた。戦闘のあるたびに勇戦して敵陣を落としたが、自らの功を語ることはなく、宇文泰に重用された。549年、使持節・車騎大将軍・開府儀同三司に転じ、爵位は公に進んだ。553年西魏宗室として、建城郡王に封ぜられた。

557年、北周が建国されると、元定は長湖郡公に降封された。明帝が即位すると、岷州刺史に任ぜられ、羌族の首領たちと親交を深めた。保定年間、左宮伯中大夫の位を受けた。長らくして、左武伯中大夫に転じ、位は大将軍に進んだ。

567年湘州刺史の華皎後梁に降ると、後梁の明帝はこれを機会に領土拡大を企図し、北周に遣使して援兵を請うた。北周は衛公宇文直と元定を派遣した。華皎が水軍を率い、元定が陸軍を率い、宇文直が全軍を総督して夏口にいたった。陳軍は郢州を堅守して屈服しなかった。宇文直は元定に数千の兵を率いて郢州を包囲させた。陳は淳于量徐度呉明徹らに水陸で周軍をはばませた。淳于量らはすでに長江を渡った元定の軍を無視して、華皎の率いる水軍と交戦した。華皎の率いる軍は、猜疑のために混乱して、陳軍に敗れた。華皎は単身脱出して後梁の保護を求めた。元定は敵中で孤立し、陳軍が水陸から迫ってきた。元定は竹を切って脱出路を開き、進みながら戦い、湘州に向かおうとしたが、湘州はすでに陥落していた。徐度らは元定の窮状を知って、使者を派遣し講和を申し入れて騙し討ちしようと図った。元定はその申し入れを偽りだと疑ったが、長史の長孫隆や諸将らの多くは元定に講和を勧めた。盟約して武装解除し、船に乗ったところを捕らえられた。部下とともに捕虜となり、丹陽に送られた。

数カ月後、憂憤のうちに発病して死去した。子の元楽が後を嗣いだ。

伝記資料