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2020年8月13日 (木) 02:50時点における版
梁敦彦 | |
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プロフィール | |
出生: | 1857年(清咸豊7年) |
死去: |
1924年(民国13年)5月10日 中華民国天津市 |
出身地: | 清広東省広州府順徳県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 梁敦彥 |
簡体字: | 梁敦彦 |
拼音: | Liáng Dūnyàn |
ラテン字: | Liang Tun-yen |
和名表記: | りょう とんげん |
発音転記: | リャン ドゥンユエン |
梁 敦彦(りょう とんげん)は、清末民初の政治家。北京政府の要人で、交通系の一員とみなされる。後に張勲復辟にも参加した。字は菘生。
事跡
香港中央書院を卒業。1872年(同治11年)に初のアメリカ公費留学生となる。1878年(光緒4年)、イェール大学に入学した。1881年(光緒7年)、米中間に中国人労働者使用問題が発生したため、これに憤った清朝の命令により、梁敦彦は帰国した。
当初は福州船政学堂に派遣されたが、まもなく天津北洋電報学堂の英文教習(教官)に転じた。1884年(光緒10年)、張之洞の招聘に応じ、両広、湖広督署の文案、知州府候補道をつとめた。1904年(光緒30年)4月、駐米兼駐日、秘、古欽差大臣に任命された。しかし、署外務部侍郎として留まり、任地には赴かなかった。9月、外務部右侍郎に任ぜられる。また同年中に、イェール大学から学士位と卒業認定を授与された。
1909年(宣統元年)1月、署外務部会弁大臣兼尚書に昇格し、翌月には正式に同職に任ぜられた。翌年3月、会弁税務大臣を兼任し、7月には弼徳院顧問大臣も兼ねた。しかし、まもなく病気のため一時辞職している。1911年(宣統3年)5月、外務部大臣となる。7月には再び弼徳院顧問大臣を兼ねた。10月、袁世凱内閣の外務部大臣に任命され、ドイツ・アメリカの両国に派遣されている。なお、この際に、イェール大学から名誉博士号を授与された。
中華民国成立後の1913年(民国2年)、北京政府総統府から政治会議議員に任じられた。翌年5月、徐世昌内閣で交通総長に起用され、交通系の要人とみなされる。1916年(民国5年)4月、段祺瑞内閣の途中で、交通総長を辞任した。
1917年(民国6年)7月、張勲復辟に際して、梁敦彦は内閣議政大臣兼外交部尚書に任命された。しかし、復辟は短期間で失敗に終わる。梁もその主犯の1人として指名手配されてしまい、天津に逃げ込んだ。翌年、指名手配を解除されたものの、政界には復帰せず、天津に寓居を続けている。
1924年(民国13年)5月10日、天津にて死去。享年68。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
清
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中華民国(北京政府)
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清(張勲復辟)
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