「文郎国」の版間の差分
リンクの転送回避 |
m Bot作業依頼: 「鏞・埈・雒」等の改名に伴うリンク修正依頼 (甌雒) - log |
||
70行目: | 70行目: | ||
== 滅亡 == |
== 滅亡 == |
||
18代雄{{Lang|ko|璿}}王の代の[[紀元前258年|前258年]]、文郎国は西甌(タイオウ)<ref group="注">[[タイー族]]の伝承によると、西甌はこの頃ナムクオン国となっていたともされる。</ref>の[[蜀ハン|蜀{{Lang|ko|泮}}]]によって滅ぼされた<ref name="Toanthu1b">『大越史記全書』外紀巻之一 蜀紀 安陽王</ref><ref name="ogura21">{{Harvnb|小倉|p=21}}</ref>。文郎国併合後に蜀{{Lang|ko|泮}}は安陽王を称し、国号を[[甌 |
18代雄{{Lang|ko|璿}}王の代の[[紀元前258年|前258年]]、文郎国は西甌(タイオウ)<ref group="注">[[タイー族]]の伝承によると、西甌はこの頃ナムクオン国となっていたともされる。</ref>の[[蜀ハン|蜀{{Lang|ko|泮}}]]によって滅ぼされた<ref name="Toanthu1b">『大越史記全書』外紀巻之一 蜀紀 安陽王</ref><ref name="ogura21">{{Harvnb|小倉|p=21}}</ref>。文郎国併合後に蜀{{Lang|ko|泮}}は安陽王を称し、国号を[[甌雒]]<ref group="注">小倉(1996)では「甌貉」としている。</ref>とした<ref name="Toanthu1b"/><ref name="ogura21" />。 |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2020年8月13日 (木) 02:47時点における版
文郎国(ぶんろうこく[3]、ヴァンランこく[4][5]、ベトナム語:Văn Lang / 文郞)は、半ば伝説とされるベトナム史上の国家。文郎(現在のフート省ベトチ市)[1]を都とした[6]。中心は現在のフート省付近と推定されている[注 2]。ベトナム史上初の国家とされており[5][6]、紀元前2879年建国という考えから、ベトナム人の間では「ベトナム5千年の歴史」という言い回しが存在する。
考古学的背景
ベトナム北部では、青銅器文化(ドンソン文化)の繁栄[7]を経て、石器や青銅器が発掘されているフングエン文化が興り、その中で文郎国が形成されていったと推定される[8]。
鴻龐氏と雄王
文郎国は鴻龐氏(ホンバン[5][注 3]氏、Hồng Bàng Thị)という氏族が治めたとされ[9]、雄王(フンヴォン[5]、称号であり固有名ではない[1])と呼ばれる代々の支配者[4]によって統治されてきた[6]。伝説によれば、中国神話に見られる炎帝神農の3世孫である帝明の子、禄続(Lộc Tục)が南方に封じられて赤鬼国を治め(涇陽王)、涇陽王と洞庭君の娘の間に崇纜(スンラム、貉龍君、雒龍君、駱龍君とも)を生んだ[10][11]。貉龍君(ラク・ロン・クァン)と天仙の女子・嫗姫の間に百越の元となる100人の子が(伝説では卵から)生まれ、その中の長男が雄王の名を受けた[6][10][12]。初代雄王はベトナム人の間では建国者としての扱いを受けている[6]。
歴代雄王
18代の雄王が文郎国を治めた[13]。グエン・カック・トゥアンの『Thế thứ các triều vua Việt Nam』[注 4]では、雄王18代は涇陽王を初代と数えた下記とされている[14]。なお『ベトナム史略』では、涇陽王から数えると20人の雄王がいたとしている[9]。
- 涇陽王 (Kinh Dương Vương)
- 雄賢王(Hùng Hiền vương、貉龍君)
- 雄麟王(Hùng Lân vương)
- 雄曄王(Hùng Diệp vương)
- 雄犧王(Hùng Hi vương)
- 雄暉王(Hùng Huy vương)
- 雄昭王(Hùng Chiêu vương)
- 雄暐王(Hùng Vĩ vương)
- 雄定王(Hùng Định vương)
- 雄曦王(Hùng Hi vương)
- 雄楨王(Hùng Trinh vương)
- 雄武王(Hùng Vũ vương)
- 雄越王(Hùng Việt vương)
- 雄英王(Hùng Anh vương)
- 雄朝王(Hùng Triêu vương)
- 雄造王(Hùng Tạo vương)
- 雄毅王(Hùng Nghị vương)
- 雄璿王(Hùng Duệ vương)
領土
文郎国は交趾・朱䳒・武寧・福禄・越裳・寧海・陽泉・陸海・武定・咸驩・九真・平文・新興・九徳・文郎の15の部[1][13]に分かれていたとされる[9]。諸説あるが、『嶺南摭怪』では東は南海、西は巴蜀、北は洞庭湖、南は猢猻精国まで広がっていたという[10]。『ベトナム史略』では南は現在のクアンチ省から北はカオバン省まで広がっていたとしている[9]。
滅亡
18代雄璿王の代の前258年、文郎国は西甌(タイオウ)[注 5]の蜀泮によって滅ぼされた[15][16]。文郎国併合後に蜀泮は安陽王を称し、国号を甌雒[注 6]とした[15][16]。
参考文献
- チャン・チョン・キム(ベトナム語)『ベトナム史略』ベトナム教育訓練省出版学寮センター。
- 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉1996年。ISBN 4-12-101372-7。
- 石井米雄、桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504。
- 桐山昇、栗原浩英、根本敬編 編『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』有斐閣〈世界に出会う各国=地域史〉、2003年9月30日。ISBN 978-4641121928。
- レイ・タン・コイ 著、石澤良昭 訳『東南アジア史』(増補新版)白水社〈文庫クセジュ〉、2000年4月30日。ISBN 978-4560058268。
- 桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社〈世界史リブレット12〉、1996年12月25日。ISBN 978-4-63-434120-3。
- グエン・カック・トゥアン(ベトナム語)『Thế thứ các triều vua Việt Nam』教育出版社、2008年。
※日本語文献でベトナム語の綴り・漢字表記が示されていないものは、中国語版Wikipedia及びベトナム語版Wikipediaを参考に補った。
出典
- ^ a b c d e 『大越史記全書』外紀巻之一 鴻厖氏紀 雄王
- ^ a b チャン・チョン・キム, p. 245, 付属歴史年表
- ^ a b 『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』47頁
- ^ a b 新田栄治「先史時代」『東南アジア史 I 大陸部』、37頁。
- ^ a b c d レイ・タン・コイ, p. 18
- ^ a b c d e 小倉, pp. 14–16
- ^ 桃木, pp. 11–12
- ^ 小倉, pp. 28–29
- ^ a b c d チャン・チョン・キム, pp. 8–10
- ^ a b c 『嶺南摭怪』巻之一 鴻龐氏伝
- ^ 『大越史記全書』外紀巻之一 鴻厖氏紀 涇陽王
- ^ 『大越史記全書』外紀巻之一 鴻厖氏紀 貉龍君
- ^ a b 『越史略』巻上 国初沿革
- ^ グエン・カック・トゥアン, pp. 14–15
- ^ a b 『大越史記全書』外紀巻之一 蜀紀 安陽王
- ^ a b 小倉, p. 21
注釈
- ^ 西暦と農暦によりずれがある。『ベトナム史略』の本文では、紀元前258年の前年である癸卯の年に滅んだとされ、小倉(1996)では紀元前258年、新田(1999)では紀元前257年に滅亡としている。
- ^ 小倉(1996)では「ヴィンフー省のフングエン、ドンダウ、ゴムンの遺跡から(中略)雄王はこのヴィンフー省でヴェトナムの建国を行ったと推測されている」としている。ヴィンフー省は1996年11月26日にヴィンフック省とフート省に分割された。フングエン文化は現在のフート省ラムタオ県キンケー社に、ドンダウ文化はヴィンフック省イエンラック県イエンラック市鎮、ゴムン文化は現在のフート省ラムタオ県トゥーサー社にあたる。
- ^ 『大越史記全書』、小倉(1996)およびレイ・タン・コイの著書ではホンバンに「鴻厖」の字を当てている。
- ^ 『越南各王世庶』の意か。
- ^ タイー族の伝承によると、西甌はこの頃ナムクオン国となっていたともされる。
- ^ 小倉(1996)では「甌貉」としている。