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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[日本統治時代の朝鮮]]で生まれる。[[1917年]]に[[興宣大院君]]の孫(父・李堈の従兄)[[李ジュン鎔|李埈鎔]]の養子となり、[[雲峴宮]]の第4代宗主となる。李埈鎔が“[[公]]”の称号を保有していたことから、以降“李{{lang|zh|鍝}}公殿下”と呼ばれるようになる。
[[日本統治時代の朝鮮]]で生まれる。[[1917年]]に[[興宣大院君]]の孫(父・李堈の従兄)[[李埈鎔]]の養子となり、[[雲峴宮]]の第4代宗主となる。李埈鎔が“[[公]]”の称号を保有していたことから、以降“李{{lang|zh|鍝}}公殿下”と呼ばれるようになる。


[[1922年]]に日本へ渡って[[学習院]]初等科に入学、その後[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]を経て、[[1933年]]に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](45期)を卒業し、[[砲兵|野戦重砲兵科]]に進んだ。
[[1922年]]に日本へ渡って[[学習院]]初等科に入学、その後[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]を経て、[[1933年]]に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](45期)を卒業し、[[砲兵|野戦重砲兵科]]に進んだ。

2020年8月13日 (木) 02:42時点における版

雲峴宮 李公
続柄 李堈第二男子(高宗孫)

全名(이 우)
称号 成吉(初名)、念石・尚雲(雅号)
身位
敬称 殿下
出生 1912年11月15日
日本統治時代の朝鮮 京城府
死去 (1945-08-07) 1945年8月7日(32歳没)
日本の旗 日本広島県広島市、(現南区似島
埋葬 雲峴宮 家族墓地
配偶者 朴賛珠
子女 李淸、李淙
父親 李公 堈
母親 金興仁
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被爆後の広島市。米軍撮影。横断する道路が相生通りであり、福屋は写真中央下のビル。
被爆後の広島市。米軍撮影。横断する道路が相生通りであり、福屋は写真中央下のビル。
李鍝が発見された地。
が発見された地。
李鍝の死を報じる新聞記事(『毎日新報』1945年8月9日付)
の死を報じる新聞記事(『毎日新報1945年8月9日付)
韓国人原爆犠牲者慰霊碑(大韓民国国会議長李孝祥揮毫)は、以前は李鍝が発見された地にあった。石碑には「李鍝殿下外貳萬餘靈位(李グウ殿下外(ほか)二万余の霊位)」と篆書で刻まれている。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑(大韓民国国会議長李孝祥揮毫)は、以前は李が発見された地にあった。石碑には「李殿下外貳萬餘靈位(李グウ殿下外(ほか)二万余の霊位)」と篆書で刻まれている。

(り ぐう、イ・ウ、1912年11月15日 - 1945年8月7日)は、李王家の一族で、日本公族

父は大韓帝国皇帝高宗の五男李堈。母は側妾の金興仁。純宗李王垠の甥に当たり、李鍵(桃山虔一)は異母兄、李海瑗は異母妹、李錫は異母弟、李源は甥。初名は成吉、雅号は念石・尚雲[1]

経歴

日本統治時代の朝鮮で生まれる。1917年興宣大院君の孫(父・李堈の従兄)李埈鎔の養子となり、雲峴宮の第4代宗主となる。李埈鎔が“”の称号を保有していたことから、以降“李公殿下”と呼ばれるようになる。

1922年に日本へ渡って学習院初等科に入学、その後陸軍中央幼年学校を経て、1933年陸軍士官学校(45期)を卒業し、野戦重砲兵科に進んだ。

1935年朝鮮貴族朴泳孝侯爵の孫娘である朴賛珠と結婚する。公妃賛珠(勲二等昇授 勲一等宝冠章[2])との間に二男(李淸、李淙)を儲けた。

1941年陸軍大学校(54期)を卒業した。

1943年6月1日 フィリピンにて

被爆

1945年8月6日広島に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李は、馬に乗って司令部への出勤途中、福屋百貨店爆心地から710m)付近で原爆投下に遭った。は被爆後もそのまま西方へ馬を飛ばしたが、力尽きて本川橋西詰(橋桁の下とも)で抜いたサーベルを手にしたままうずくまっているところを同日夕刻発見され、ただちに市内似島の病院に収容されたが、翌7日午後4時過ぎに死亡した。死後、陸軍大佐に昇進した。遺体は妻子のいる京城へ空輸され、8月15日に葬儀が行われた。

御附武官の吉成弘中佐は、本来ならに同行しているところ、偶然水虫のため一足早く第二総軍司令部に出勤してを待っていたため、被爆死を免れた。しかし副官として自責の念に駆られ、の死の直後にピストル自殺を遂げた。病床に就ききりでいた吉成を、瀕死の鍝は「お前の方は、体は大丈夫か」と気遣ったと言う。

備考

原爆で死亡した朝鮮人を悼む原爆犠牲者慰霊碑が1970年代に建設された。慰霊碑の場所は李が発見された本川橋の西詰めに建立された。その後、朝鮮総聯民団が慰霊碑の「韓国人」という表現を「朝鮮人」にすべきと揉めたが、最終的に「韓国人」と書かれた慰霊碑が平和公園内(かつての慈仙寺跡地付近)に移設された。

栄典

脚注

  1. ^ 金乙漢 (2010-08-15). 조선의 마지막 황태자 영친왕. 페이퍼로드. p. 58. ISBN 978-89-92920-45-2 
  2. ^ 官報』第5509号「叙任及辞令」1945年5月28日。p.219
  3. ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
  4. ^ 『官報』第2043号「叙任及辞令」1933年10月21日。p.497
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  6. ^ 『官報』第5048号「叙任及辞令」1943年11月9日。p.197

参考文献

関連項目