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[[1920年]](民国9年)、[[孫文]]・[[陳炯明]]が広東へ進攻してくると、陸栄廷・沈鴻英らは敗北し、広西に退却した。沈は広西辺防軍第3路軍総司令として、3個師を率いて賀県・平楽一帯に駐屯した。その後、陸は再び広東への進攻を企図したが、[[1921年]](民国10年)6月、孫文の指示により陳炯明が広西へ逆進攻してくる(「援桂」)。


この時、劉震寰が陸栄廷側から離反する。形勢不利を悟った沈鴻英も、ついに陸に下野を迫る電報を打ち、陳炯明に寝返ろうと救桂軍総司令を自称した。ところが、陳はこれを信用せず、そのまま沈への攻撃を続ける。劣勢になった沈は[[趙恒テキ|趙恒惕]]を頼って[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]に逃げ込んだ。
この時、劉震寰が陸栄廷側から離反する。形勢不利を悟った沈鴻英も、ついに陸に下野を迫る電報を打ち、陳炯明に寝返ろうと救桂軍総司令を自称した。ところが、陳はこれを信用せず、そのまま沈への攻撃を続ける。劣勢になった沈は[[趙恒惕]]を頼って[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]に逃げ込んだ。


その後、北京政府の[[呉佩孚]]から支援を受け、沈は北洋陸軍第17師師長に任命された。[[1922年]](民国11年)7月、広西省の広東軍が広東へ戻ったところ、沈は呉の命令により広東を攻撃したが、これは失敗する。しかし、11月に沈は広西省に戻り、[[桂林市|桂林]]・[[柳州市|柳州]]・[[梧州市|梧州]]一帯を占領して、広西省の有力軍人としての地位を取り戻した。
その後、北京政府の[[呉佩孚]]から支援を受け、沈は北洋陸軍第17師師長に任命された。[[1922年]](民国11年)7月、広西省の広東軍が広東へ戻ったところ、沈は呉の命令により広東を攻撃したが、これは失敗する。しかし、11月に沈は広西省に戻り、[[桂林市|桂林]]・[[柳州市|柳州]]・[[梧州市|梧州]]一帯を占領して、広西省の有力軍人としての地位を取り戻した。

2020年8月13日 (木) 02:25時点における版

沈鴻英
プロフィール
出生: 1871年同治10年)
死去: 1938年民国27年)
イギリス香港
出身地: 清の旗 広西省柳州府雒容県(現在は雒容鎮)
職業: 軍人
各種表記
繁体字 沈鴻英
簡体字 沈鸿英
拼音 Shěn Hóngyīng
ラテン字 Shen Hung-ying
和名表記: しん こうえい
発音転記: シェン ホンイン
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沈 鴻英(しん こうえい)は清末民初の軍人。桂軍(広西軍、広西派)の指導者の1人で、陸栄廷を中心とする「旧広西派」と呼ばれる集団の一員。後年は陸栄廷らを相手に広西省の統治権を巡って激しく争った。旧名は亜栄冠南。祖籍は広東省恩平県

事跡

旧広西系での台頭

貧困の家庭に生まれ、匪賊として活動し、次第にその頭目として台頭した。1911年宣統3年)の辛亥革命後に、沈鴻英は革命派の招聘に応じて管帯となる。そして革命派の軍人劉震寰に属した。

1912年民国元年)、督帯に昇進した。1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)が勃発すると、沈は革命派に与した上司の劉震寰を追放している。これにより、広西督軍陸栄廷から賞賛され、幇統に昇進した。さらに、陸栄廷に対する反乱軍を鎮圧したことで、統領に昇進している。

1916年(民国5年)3月、陸栄廷が護国戦争(第三革命)で反袁独立を宣言し、広東将軍(督軍)の竜済光を攻撃する。沈鴻英も陸に随従し、欽廉鎮守使に任命された。1917年(民国6年)12月、竜が再び広東に上陸してくると、陸栄廷が組織した討竜4個軍のうち、沈は第3軍総司令に任命され、竜を撃退した。

その後、沈は広東護国軍第3軍総司令兼瓊崖鎮守使に任命された。1919年(民国8年)冬には、北江に駐屯し、南韶鎮守使兼粤贛湘辺防督弁に任命された。

孫文の下での活動

1920年(民国9年)、孫文陳炯明が広東へ進攻してくると、陸栄廷・沈鴻英らは敗北し、広西に退却した。沈は広西辺防軍第3路軍総司令として、3個師を率いて賀県・平楽一帯に駐屯した。その後、陸は再び広東への進攻を企図したが、1921年(民国10年)6月、孫文の指示により陳炯明が広西へ逆進攻してくる(「援桂」)。

この時、劉震寰が陸栄廷側から離反する。形勢不利を悟った沈鴻英も、ついに陸に下野を迫る電報を打ち、陳炯明に寝返ろうと救桂軍総司令を自称した。ところが、陳はこれを信用せず、そのまま沈への攻撃を続ける。劣勢になった沈は趙恒惕を頼って湖南省に逃げ込んだ。

その後、北京政府の呉佩孚から支援を受け、沈は北洋陸軍第17師師長に任命された。1922年(民国11年)7月、広西省の広東軍が広東へ戻ったところ、沈は呉の命令により広東を攻撃したが、これは失敗する。しかし、11月に沈は広西省に戻り、桂林柳州梧州一帯を占領して、広西省の有力軍人としての地位を取り戻した。

この年の6月には、陳炯明が孫文に対して攻撃をしかけ、両者は決裂していた。孫文は、桂軍の劉震寰・沈鴻英、滇軍楊希閔范石生を味方に取り込み、沈は桂軍総司令に任命された。12月、この4軍人により組織された討賊軍が広州の陳に攻撃を開始する。1923年(民国12年)1月には、広州から陳を駆逐した。これにより、2月に孫は広州で大元帥府を再建した。

広西争奪戦

しかし、まもなく沈鴻英は呉佩孚と連絡を取るようになる。3月、北京政府から督理広東軍務善後事宜として任命された。4月には沈はこれを拝受し、広州の孫文を攻撃する。しかし、孫文・劉震寰・楊希閔の軍に反撃され、結局は広西へ敗走した。この後、広西省では、沈軍、陸栄廷軍、そして李宗仁新広西派(新桂系)軍との三つ巴の抗争が開始される。

沈鴻英は、3勢力中最強の陸栄廷に対抗するため、新広西派と事実上の連合を形成した。1924年(民国13年)4月、桂林に進軍してきた陸を沈は包囲・攻撃した。この間の6月に、新広西派は手薄となった南寧を攻略して、陸をさらに追い込んでいる。8月、陸が全州に撤退したため、沈は桂林を占領した。さらに9月、沈は全州を攻略して陸を広西から駆逐し、翌月の下野に追い込むことに成功した[1]

しかし、翌年に開始された新広西派との戦いでは、沈鴻英は次第に不利に追い込まれていく。ついに同年4月に桂林を失陥し、ほどなくして広西省から駆逐されてしまった。沈は香港へ身一つで逃れ、以後、軍政に復帰しようと目論むことは無かった。

1938年(民国27年)、香港で病没。享年68。

  1. ^ 黄秀頴「沈鴻英」『民国人物伝 第7巻』、254頁は、陸栄廷の下野を1924年(民国13年)9月23日、全州において、としている。しかし陸の下野時期についての有力説は、10月9日、湖南省永州において、である(莫済杰・陳福林主編 『新桂系史第1巻』、59-74頁;黄宗炎「陸栄廷」謝本書主編『西南十軍閥』、76頁)。これは、『申報』1924年10月23日記事、黄紹竑の回顧録『五十回憶』等の裏づけがある。

参考文献

  • 黄秀頴「沈鴻英」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0 
  • 黄紹竑『五十回憶』岳麓書社、1999年。ISBN 7-80520-968-5 
  • 黄宗炎「陸栄廷」謝本書主編『西南十軍閥』上海人民出版社、1993年。ISBN 7-208-01642-9 
  • 莫済杰・陳福林主編『新桂系史 第1巻』広西人民出版社、1991年。ISBN 7-219-01885-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
陳炯明(粤軍総司令)
広東督理
1923年3月 - 1924年5月
(1923年5月、逃亡)
次代
林虎