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* 『[[血と霊]]』 : 監督[[溝口健二]]、日活向島撮影所、1923年
* 『[[血と霊]]』 : 監督[[溝口健二]]、日活向島撮影所、1923年
* 『[[建国史 尊王攘夷]]』 : 監督[[池田富保]]、[[日活太秦撮影所]]、1927年
* 『[[建国史 尊王攘夷]]』 : 監督[[池田富保]]、[[日活太秦撮影所]]、1927年
* 『[[弥次多 尊王の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1927年
* 『[[弥次多 尊王の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1927年
* 『[[弥次喜多 韋駄天の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[弥次喜多 韋駄天の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[弥次喜多 伏見鳥羽の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[弥次喜多 伏見鳥羽の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年

2020年8月12日 (水) 21:35時点における版

みます ゆたか
三桝 豊
本名 三桝 豊三郎(みます とよさぶろう)
別名義 三桝 豊二郎(みます とよじろう)
三桝 万豊(みます まんほう)
生年月日 (1892-03-02) 1892年3月2日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本愛知県名古屋市中区
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1907年 - 1942年
活動内容 1907年 新派三崎座初舞台
1921年 松竹蒲田撮影所
1922年 日活向島撮影所
1922年 日活京都撮影所
1934年 新興キネマ
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三桝 豊(みます ゆたか、1892年3月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。愛知県名古屋市中区出身。本名は三桝 豊三郎(みます とよさぶろう)。別名は三桝 豊二郎(みます とよじろう)、三桝 万豊(みます まんほう)。

人物・来歴

1892年(明治25年)3月2日、現在の愛知県名古屋市中区に生まれる。私立明星商業学校(現在の明星高等学校)卒業。

新派高田実に入門し、1907年(明治40年)に三崎座で初舞台を踏む。1921年(大正10年)、松竹蒲田撮影所に入社、菊池寛原作、伊藤大輔脚本、賀古残夢監督による『火華』で映画界にデビューする[1]

1922年(大正11年)12月、日活向島撮影所に移籍する[1]。翌1923年(大正12年)、溝口健二監督の『血と霊』等に出演するが、同年9月1日の関東大震災で撮影所は崩壊、日活京都撮影所に異動する[1]。1926年(大正15年)以降は時代劇にも多く出演するようになる[1]

1934年(昭和9年)、新興キネマに移籍する[1]。翌1935年(昭和10年)からは、東京・東大泉に開設された東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に移籍し、本格的に現代劇に復帰した[1]

1940年(昭和15年)以降、「三桝万豊」とも名乗るが固定的ではなく、1942年(昭和17年)に戦時統制で新興キネマが日活大都映画と合併して、大映を形成して以降の出演記録はない[1]没年不詳

おもなフィルモグラフィ

  1. ^ a b c d e f g 三桝豊 / 三桝万豊、日本映画データベース、2010年2月23日閲覧。

外部リンク