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清末の[[秀才 (科挙)|秀才]]。[[東三省総督]]衙門文案、鴉片税徴収局局長、[[直隷省]][[承徳市|承徳府]][[知府]]、[[奉天省]][[朝陽市|朝陽府]]知府を歴任した。[[中華民国]]成立後の[[1916年]]([[民国紀元|民国]]5年)から、[[奉天派]]・[[張作霖]]の幕僚となり、奉天全省清郷督弁、奉天省署高等顧問などを歴任した。[[1918年]](民国7年)、[[北京政府]]中央に呼ばれ、大総統[[徐世昌]]の下で大総統府顧問に任ぜられた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、125頁。</ref><ref>外務省情報部編(1928)、406頁。</ref> |
清末の[[秀才 (科挙)|秀才]]。[[東三省総督]]衙門文案、鴉片税徴収局局長、[[直隷省]][[承徳市|承徳府]][[知府]]、[[奉天省]][[朝陽市|朝陽府]]知府を歴任した。[[中華民国]]成立後の[[1916年]]([[民国紀元|民国]]5年)から、[[奉天派]]・[[張作霖]]の幕僚となり、奉天全省清郷督弁、奉天省署高等顧問などを歴任した。[[1918年]](民国7年)、[[北京政府]]中央に呼ばれ、大総統[[徐世昌]]の下で大総統府顧問に任ぜられた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、125頁。</ref><ref>外務省情報部編(1928)、406頁。</ref> |
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[[1920年]](民国9年)、経界局副総裁となり、同年8月、[[靳雲鵬]]内閣で農商総長署理に任ぜられた。翌年5月、正式に農商総長となり、続く[[顔恵慶]]臨時内閣、[[梁士詒]]内閣でもその地位にあった。[[1921年]](民国10年)12月、辞任し、翌年には中東鉄路([[東清鉄道]])督弁に任命された。[[1924年]](民国13年)10月、第2次[[奉直戦争]]直後の[[黄郛]]内閣で、王迺斌は再び農商総長となった。しかし翌月の内閣崩壊とともに、王も辞任した。以後、[[北京市|北京]]に寓居したが、没年等は不明である。<ref name=Xu/><ref>外務省情報部編(1928)、406-407頁。</ref> |
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2020年8月12日 (水) 09:31時点における版
王迺斌 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1870年(清同治9年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清奉天省盛京将軍管轄区新民庁 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王迺斌 |
簡体字: | 王迺斌 |
拼音: | Wáng Nǎibīn |
ラテン字: | Wang Nai-pin |
和名表記: | おう ないひん |
発音転記: | ワン ナイビン |
王 迺斌(おう ないひん/おう だいひん)は、清末民初の政治家。字は恩溥。
事績
清末の秀才。東三省総督衙門文案、鴉片税徴収局局長、直隷省承徳府知府、奉天省朝陽府知府を歴任した。中華民国成立後の1916年(民国5年)から、奉天派・張作霖の幕僚となり、奉天全省清郷督弁、奉天省署高等顧問などを歴任した。1918年(民国7年)、北京政府中央に呼ばれ、大総統徐世昌の下で大総統府顧問に任ぜられた。[1][2]
1920年(民国9年)、経界局副総裁となり、同年8月、靳雲鵬内閣で農商総長署理に任ぜられた。翌年5月、正式に農商総長となり、続く顔恵慶臨時内閣、梁士詒内閣でもその地位にあった。1921年(民国10年)12月、辞任し、翌年には中東鉄路(東清鉄道)督弁に任命された。1924年(民国13年)10月、第2次奉直戦争直後の黄郛内閣で、王迺斌は再び農商総長となった。しかし翌月の内閣崩壊とともに、王も辞任した。以後、北京に寓居したが、没年等は不明である。[1][3]
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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