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[[1901年]]([[光緒]]27年)、日本に留学し、[[早稲田大学]]政治経済科に入学した。[[1906年]](光緒32年)に卒業して帰国する。北洋総督秘書に就任し、さらに北洋師範学校学監となった。その後も、[[直隷省|直隷]]全省学務処会弁、直隷全省自治総局督理などを歴任した。そのほかにも産業分野で様々な事業に関与し、中国工業銀行総裁にも就任した。 |
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[[中華民国]]成立後は、[[北京政府]]の財政部顧問、農商部鉱政顧問、参政院参政などを歴任した。[[1915年]]([[民国紀元|民国]]4年)4月、33歳で[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]総裁となったが、翌年4月に罷免された。[[1920年]](民国9年)、中日実業公司総裁となった。翌年5月、[[靳雲鵬]]内閣において財政総長に任命されたが、同年10月に辞任した。[[1927年]](民国16年)1月、[[上海市|上海]]で病没。享年45。 |
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2020年8月12日 (水) 09:31時点における版
李士偉 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年)[1] |
死去: |
1927年(民国16年)1月 中華民国上海市 |
出身地: | 清直隷省広平府永年県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 李士偉 |
簡体字: | 李士伟 |
拼音: | Lǐ Shìwěi |
ラテン字: | Li Shih-wei |
和名表記: | り しい |
発音転記: | リー シーウェイ |
李 士偉(り しい)は中華民国の政治家。北京政府の要人。字は伯芝。
事績
1901年(光緒27年)、日本に留学し、早稲田大学政治経済科に入学した。1906年(光緒32年)に卒業して帰国する。北洋総督秘書に就任し、さらに北洋師範学校学監となった。その後も、直隷全省学務処会弁、直隷全省自治総局督理などを歴任した。そのほかにも産業分野で様々な事業に関与し、中国工業銀行総裁にも就任した。
中華民国成立後は、北京政府の財政部顧問、農商部鉱政顧問、参政院参政などを歴任した。1915年(民国4年)4月、33歳で中国銀行総裁となったが、翌年4月に罷免された。1920年(民国9年)、中日実業公司総裁となった。翌年5月、靳雲鵬内閣において財政総長に任命されたが、同年10月に辞任した。1927年(民国16年)1月、上海で病没。享年45。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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