「段芝貴」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 靳姓の各人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (靳雲鵬) - log |
||
46行目: | 46行目: | ||
{{先代次代|[[奉天省 (中華民国)|奉天]]将軍|<small>[[1915年]]8月 - [[1916年]]6月</small>|[[張錫鑾]]|[[張作霖]]}} |
{{先代次代|[[奉天省 (中華民国)|奉天]]将軍|<small>[[1915年]]8月 - [[1916年]]6月</small>|[[張錫鑾]]|[[張作霖]]}} |
||
{{先代次代|京畿警備司令|<small>[[1917年]]8月 - [[1919年]]9月</small>|[[王士珍]]|(京畿衛戍司令に改組)}} |
{{先代次代|京畿警備司令|<small>[[1917年]]8月 - [[1919年]]9月</small>|[[王士珍]]|(京畿衛戍司令に改組)}} |
||
{{先代次代|陸軍総長|<small>[[1917年]]12月 - [[1919年]]1月</small>|[[王士珍]]|[[ |
{{先代次代|陸軍総長|<small>[[1917年]]12月 - [[1919年]]1月</small>|[[王士珍]]|[[靳雲鵬]]}} |
||
{{先代次代|京畿衛戍司令|<small>[[1919年]]9月 - [[1920年]]7月</small>|(京畿警備司令から改組)|[[王懐慶]]}} |
{{先代次代|京畿衛戍司令|<small>[[1919年]]9月 - [[1920年]]7月</small>|(京畿警備司令から改組)|[[王懐慶]]}} |
||
|} |
|} |
2020年8月12日 (水) 09:30時点における版
段芝貴 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1869年(清同治8年) |
死去: |
1925年(民国14年)3月22日 中華民国 天津市 |
出身地: | 清安徽省廬州府合肥県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 段芝貴 |
簡体字: | 段芝贵 |
拼音: | Duàn Zhīguì |
ラテン字: | Tuan Chih-kuei |
和名表記: | だん しき |
発音転記: | ドゥアン ジーグイ |
段 芝貴(だん しき)は清末民初の軍人。北京政府、安徽派の有力軍人である。字は香岩。
事跡
天津武備学堂を卒業。1895年(光緒21年)、袁世凱が組織した新建陸軍に加入する。督隊稽査先鋒官、左翼歩兵第2営統帯、北洋常備軍軍政司参謀処総弁、天津南段警察局総弁などを歴任した。1908年(光緒34年)、布政使署理黒竜江巡撫に就任し、さらに北洋第3鎮統制に就任した。
辛亥革命勃発時には、武衛右軍右翼翼長に就任する。1912年(民国元年)、拱衛軍司令に就任した。1913年(民国2年)、江西宣撫使兼第2軍軍長となる。さらに、二次革命(第二革命)鎮圧の功績から、湖北都督に昇進した。
1914年(民国3年)、彰武上将軍に封じられ、督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)に就任した。1915年(民国4年)8月、鎮安上将軍に遷り、督理奉天軍務(奉天将軍)兼巡按使に就任した。袁世凱の皇帝即位を支持し、12月、一等公爵に封じられた。しかし、東北に地盤を広げようとする張作霖らから圧力をかけられ、段は1916年(民国5年)4月に、奉天将軍等を辞任した。
6月に袁世凱が死去すると、段芝貴は段祺瑞率いる安徽派に加わった。1917年(民国6年)7月の張勲復辟の際には、段芝貴は討逆軍東路司令に任命されて張勲を撃破し、輔威上将軍に封じられた。1918年(民国7年)1月、陸軍総長に就任した。翌年1月、京畿衛戍司令に異動した。
1920年(民国9年)7月の安直戦争では、定国軍西路総司令として直隷派と戦ったが敗北する。指名手配を受けた段芝貴は、天津の租界に逃げ込み、完全に政界・軍界から引退した。
1925年(民国14年)3月、死去。享年57。
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
|
---|