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'''呉 光新'''(ご こうしん)は、[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人。[[北京政府]]、[[安徽派]]の有力軍人で、[[段祺瑞]]配下の「'''四大金剛'''」の1人(他は[[靳雲鵬]]・[[徐樹錚]]・[[傅良佐]])と目された。また、段の義弟(妻の弟)にあたる。[[字]]は'''閻堂'''、'''自堂'''、'''植堂'''、'''志堂'''。 |
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== 事跡 == |
== 事跡 == |
2020年8月12日 (水) 09:30時点における版
呉光新 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年) |
死去: |
1939年(民国28年) イギリス領香港 |
出身地: | 清安徽省廬州府合肥県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 吳光新 |
簡体字: | 吴光新 |
拼音: | Wú Guāngxīn |
ラテン字: | Wu Kuang-hsin |
和名表記: | ご こうしん |
発音転記: | ウー グアンシン |
呉 光新(ご こうしん)は、清末民初の軍人。北京政府、安徽派の有力軍人で、段祺瑞配下の「四大金剛」の1人(他は靳雲鵬・徐樹錚・傅良佐)と目された。また、段の義弟(妻の弟)にあたる。字は閻堂、自堂、植堂、志堂。
事跡
1903年(光緒29年)6月、日本に留学する。陸軍士官学校砲兵科第3期で学び、翌年卒業した。帰国後は、北洋陸軍第3鎮砲3標管帯、奉天混成協標統、第13混成協砲標標統、第2軍参議官と歴任した。
1914年(民国3年)、陸軍第20師師長に就任したが、同年、病のため辞任した。袁世凱死後は段祺瑞率いる安徽派の有力幹部と目される。1917年(民国6年)、長江上游司令部司令に任命された。同年夏には四川査弁使を兼任した。1920年(民国9年)6月、湖南督軍も兼ねた。しかし翌月の安直戦争の際に、呉は直隷派の湖北督軍王占元に拘禁され、軍も武装解除された。
1921年(民国10年)に釈放されると、呉光新は奉天派に与する。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争では、奉軍第6方面軍副司令[1]として参戦した。段祺瑞による執政政府が成立すると、陸軍総長、陸軍訓練総監に任命された。1925年(民国14年)12月に辞職し、段とともに上海に移住した。
注
- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典』によると、第6軍副軍長。
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2001年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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