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'''傅 良佐'''(ふ りょうさ)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人。[[北京政府]][[安徽派]]に属し、[[段祺瑞]]配下の「'''四大金剛'''」(他は[[キン雲鵬|靳雲鵬]]・[[徐樹錚]]・[[呉光新]])の1人と称される。[[字]]は'''清節'''。
'''傅 良佐'''(ふ りょうさ)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人。[[北京政府]][[安徽派]]に属し、[[段祺瑞]]配下の「'''四大金剛'''」(他は[[雲鵬]]・[[徐樹錚]]・[[呉光新]])の1人と称される。[[字]]は'''清節'''。


== 事績 ==
== 事績 ==

2020年8月12日 (水) 09:30時点における版

傅良佐
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 不詳[1]
死去: 1926年民国15年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 湖南省乾州庁
職業: 軍人
各種表記
繁体字 傅良佐
簡体字 傅良佐
拼音 Fù Liángzuǒ
ラテン字 Fu Liang-tso
和名表記: ふ りょうさ
発音転記: フー リャンズオ
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傅 良佐(ふ りょうさ)は清末民初の軍人。北京政府安徽派に属し、段祺瑞配下の「四大金剛」(他は靳雲鵬徐樹錚呉光新)の1人と称される。清節

事績

1894年(光緒20年)、湖南時務学堂で学ぶが、まもなく北洋武備学堂に転学した。卒業後に日本に留学し陸軍士官学校第3期砲兵科を卒業した。帰国後は北洋督練処提調、兵備幇弁を歴任する。1907年(光緒33年)、東三省兵備処擬訂軍制に任ぜられ、まもなく吉林辺務幇弁兼護理督弁事宜に昇進した。その後、袁世凱に招聘され、軍事参議に任ぜられている。

中華民国成立後の1912年民国元年)に、傅良佐は総統府軍事処処長に任ぜられ、中将に昇進した。同年11月、察哈爾省副都統に任ぜられる。翌年6月、直隷省に転任し、薊楡鎮守使や高等軍事裁判処処長などをつとめた。

1916年(民国5年)5月、傅良佐は陸軍部次長に栄転する。翌月の袁世凱死後、傅は段祺瑞率いる安徽派に属し、「四大金剛」の1人として有力幹部と目されている。翌年7月の張勲復辟では、傅は段を補佐して張勲の掃討戦を敢行した。翌月、この功績もあって湖南督軍兼冠威将軍に任ぜられている。しかし同年11月、傅は陸栄廷旧広西派(旧桂系)との戦いに敗北し、湖南を追われてしまう。後に辺防督弁公署参謀長に転じた。

1920年(民国9年)7月の安直戦争の際に、傅良佐は段祺瑞の密使として天津直隷派との交渉にあたった。しかし、傅はかえって直隷派に逮捕、収監されてしまう。結局、安徽派は安直戦争で敗北し、傅は1922年(民国11年)5月にようやく釈放される。その後、傅は引退して天津に引きこもった。

1926年(民国15年)、天津で死去。

  1. ^ 徐友春『民国人物大辞典 増訂版』2010頁は「1887年光緒13年)生まれ」としているが、この生年では湖南時務学堂入学以後の経歴との整合性がとれない。そのため本記事では「生年不詳」とする。

参考文献

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
譚延闓
湖南督軍
1917年8月 - 11月
次代
譚延闓