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[[陽猛]]の子として生まれた。奉朝請を初任とし、都督・直後・明威将軍・積射将軍に累進した。[[于謹]]の下で盤豆柵を攻撃し、[[李遠]]の下で[[沙苑の戦い]]に参戦するなど、軍功を重ねた。安平県侯に封じられ、冠軍将軍・中散大夫の位を加えられた。後に[[洛陽]]に入り、[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]や[[玉壁の戦い (542年)|玉壁の戦い]]、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]に参加し、戦功を挙げた。[[邑陽郡]][[太守]]の世襲を許された。[[宇文虬]]の下で上津を攻め落とし、通直散騎常侍・大都督となり、[[儀同三司]]の位に進んだ。[[陳 (南朝)|南朝陳]]の侯方児・潘純陀が江陵に侵攻してくると、陽雄は[[豆盧寧]]の下でこれを撃退した。[[洵州]][[刺史]]に任じられた。[[玉州|平州]]が置かれると、陽雄はその刺史に任じられた。爵位は玉城県公に進み、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]の位を加えられた。召還されて載師中大夫となり、[[西寧州]]総管に任じられたが、病のため受けなかった。通洛防主に任じられた。 |
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国境に駐屯することが長く、軍民をよく統治して、[[北斉]]の[[独孤永業]]など敵として対峙した人からも尊敬を受けた。召還されて京兆尹となり、民部中大夫となった。位は[[大将軍]]に進み、まもなく中外府長史に転じた。江陵総管・四州五防諸軍事となり、魯陽県公に改封された。[[578年]]([[宣政]]元年)、鎮で死去した。[[579年]]([[大象]]元年)、魯陽郡公に追封され、陳曹莒汴四州刺史の位を追贈された。[[諡]]は懐といった。 |
国境に駐屯することが長く、軍民をよく統治して、[[北斉]]の[[独孤永業]]など敵として対峙した人からも尊敬を受けた。召還されて京兆尹となり、民部中大夫となった。位は[[大将軍]]に進み、まもなく中外府長史に転じた。江陵総管・四州五防諸軍事となり、魯陽県公に改封された。[[578年]]([[宣政]]元年)、鎮で死去した。[[579年]]([[大象]]元年)、魯陽郡公に追封され、陳曹莒汴四州刺史の位を追贈された。[[諡]]は懐といった。 |
2020年8月12日 (水) 06:36時点における版
陽 雄(よう ゆう、生年不詳 - 578年)は、西魏から北周にかけての軍人。字は元略。本貫は上洛郡邑陽県。
経歴
陽猛の子として生まれた。奉朝請を初任とし、都督・直後・明威将軍・積射将軍に累進した。于謹の下で盤豆柵を攻撃し、李遠の下で沙苑の戦いに参戦するなど、軍功を重ねた。安平県侯に封じられ、冠軍将軍・中散大夫の位を加えられた。後に洛陽に入り、河橋の戦いや玉壁の戦い、邙山の戦いに参加し、戦功を挙げた。邑陽郡太守の世襲を許された。宇文虬の下で上津を攻め落とし、通直散騎常侍・大都督となり、儀同三司の位に進んだ。南朝陳の侯方児・潘純陀が江陵に侵攻してくると、陽雄は豆盧寧の下でこれを撃退した。洵州刺史に任じられた。平州が置かれると、陽雄はその刺史に任じられた。爵位は玉城県公に進み、驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられた。召還されて載師中大夫となり、西寧州総管に任じられたが、病のため受けなかった。通洛防主に任じられた。
国境に駐屯することが長く、軍民をよく統治して、北斉の独孤永業など敵として対峙した人からも尊敬を受けた。召還されて京兆尹となり、民部中大夫となった。位は大将軍に進み、まもなく中外府長史に転じた。江陵総管・四州五防諸軍事となり、魯陽県公に改封された。578年(宣政元年)、鎮で死去した。579年(大象元年)、魯陽郡公に追封され、陳曹莒汴四州刺史の位を追贈された。諡は懐といった。
子の陽長寛が後を嗣ぎ、位は儀同大将軍に上った。