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その後、[[寧宗 (宋)|寧宗]]の時代になると、[[1195年]]に右丞相に任命された。しかし、[[韓タク冑|韓侘冑]]と対立し、その讒言を信じた寧宗によって、同年のうちに官位剥奪の上、[[福州]]に流され失脚した。その後も韓侘冑による圧迫で[[永州]]への流罪となるが、その途上で病死した。韓侘冑との対立は、[[朱熹]]を嫌いその[[宋明理学]]を偽学として弾圧する韓侘冑に対し、趙汝愚が手厚く庇護したことによるためといわれる。
その後、[[寧宗 (宋)|寧宗]]の時代になると、[[1195年]]に右丞相に任命された。しかし、[[韓冑|韓侘冑]]と対立し、その讒言を信じた寧宗によって、同年のうちに官位剥奪の上、[[福州]]に流され失脚した。その後も韓侘冑による圧迫で[[永州]]への流罪となるが、その途上で病死した。韓侘冑との対立は、[[朱熹]]を嫌いその[[宋明理学]]を偽学として弾圧する韓侘冑に対し、趙汝愚が手厚く庇護したことによるためといわれる。


その死から11年を経て、韓侘冑が殺害されると、趙汝愚に対して[[太師]]・周王などが追贈され、名誉は回復された。
その死から11年を経て、韓侘冑が殺害されると、趙汝愚に対して[[太師]]・周王などが追贈され、名誉は回復された。

2020年8月12日 (水) 06:33時点における版

趙 汝愚(ちょう じょぐ、紹興10年(1140年) - 慶元2年1月2日1196年2月2日))は、南宋前期の宗室子直(しちょく)。

北宋太宗の長男で真宗の同母兄であった趙元佐の末裔である。智勇兼備の名士で、内政でも軍事でも多くの手柄を立てて、孝宗から厚い信任を受けた。しかし1194年に孝宗が死去すると、後継者の光宗と対立し、これを皇太后呉氏高宗の皇后)と共謀して廃した。

その後、寧宗の時代になると、1195年に右丞相に任命された。しかし、韓侘冑と対立し、その讒言を信じた寧宗によって、同年のうちに官位剥奪の上、福州に流され失脚した。その後も韓侘冑による圧迫で永州への流罪となるが、その途上で病死した。韓侘冑との対立は、朱熹を嫌いその宋明理学を偽学として弾圧する韓侘冑に対し、趙汝愚が手厚く庇護したことによるためといわれる。

その死から11年を経て、韓侘冑が殺害されると、趙汝愚に対して太師・周王などが追贈され、名誉は回復された。