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寧宗の死後は[[理宗]]を擁立して、自身が没する1233年まで独裁権を握り続けた。史弥遠の治世の年間に、南宋の民衆は重税による圧政に苦しめられ、文治主義が重んじられて軍事力が低下するという、南宋滅亡の遠因が作られた時代でもあった。 |
寧宗の死後は[[理宗]]を擁立して、自身が没する1233年まで独裁権を握り続けた。史弥遠の治世の年間に、南宋の民衆は重税による圧政に苦しめられ、文治主義が重んじられて軍事力が低下するという、南宋滅亡の遠因が作られた時代でもあった。 |
2020年8月12日 (水) 06:32時点における版
史 弥遠(し びえん、隆興2年1月29日(1164年2月23日) - 紹定6年10月24日(1233年11月27日))は、南宋中期の重臣。第2代皇帝孝宗時代に右丞相を務めた史浩の子。明州鄞県(現在の浙江省寧波市鄞州区)の出身。
概要
南宋の第4代皇帝寧宗の代には礼部侍郎の地位にあり、南宋の政治を取り仕切る実力者の一人であった。
1206年、当時の南宋の宰相の韓侂冑が金との和睦条約である乾道条約を破棄して金に侵攻した(開禧用兵)が、章宗の迎撃に遭って大敗する。すると史弥遠は和平派と結託して、韓侂冑を殺害して主戦派を抑え込んだ上で金と和睦した。そして1208年には宰相に就任し、朝廷の全権を握った。
寧宗の死後は理宗を擁立して、自身が没する1233年まで独裁権を握り続けた。史弥遠の治世の年間に、南宋の民衆は重税による圧政に苦しめられ、文治主義が重んじられて軍事力が低下するという、南宋滅亡の遠因が作られた時代でもあった。