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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
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東京帝大卒業後、[[弁護士]]となり、[[細野三千雄]]らとともに、[[日本労働総同盟]]や[[全日本農民組合連合会|日本農民組合]]の法律顧問として、[[労働争議]]や[[小作争議]]で闘い、その過程で[[賀川豊彦]]や[[松岡駒吉]]と出会う。大正10年([[1921年]])、ナプボルツ時計工場同盟罷業の前後より[[社会主義]]に強く傾倒し、[[日本社会主義同盟]]に加盟。これにより、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]は大正11年([[1922年]])頃に三輪を「思想要注意人」に指定している。

2020年8月12日 (水) 04:47時点における版

三輪 寿壮
みわ じゅそう
三輪寿壮の肖像写真
生年月日 1894年12月15日
出生地 福岡県糟屋郡蓆内村
没年月日 1956年11月14日
死没地 東京都文京区
出身校 東京帝国大学法学部独法科 卒業
第一高等学校 卒業
前職 弁護士
所属政党労働農民党→)
日本労農党→)
日本大衆党→)
全国大衆党→)
(全国労農大衆党→)
社会大衆党→)
(無所属→)
日本社会党→)
社会党右派→)
日本社会党
称号 従四位
勲三等旭日章

日本の旗 衆議院議員(2-4期)
選挙区 旧東京3区
当選回数 3回
在任期間 1952年10月2日 - 1956年11月14日

日本の旗 衆議院議員(1期)
選挙区 東京府第5区
当選回数 1回
在任期間 1937年5月1日 - 1942年4月30日
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三輪 寿壮(みわ じゅそう、1894年明治27年)12月15日1956年昭和31年)11月14日[1])は日本の弁護士、法律家政治家労働農民党書記長、日本労農党書記長、第二東京弁護士会会長、衆議院議員

来歴・人物

福岡県糟屋郡蓆内村(現・古賀市)に、蓆内村村長などを務めた三輪健太郎の長男として生まれる。福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)、第一高等学校を経て、大正9年(1920年東京帝国大学法学部卒業。一高・東大の同期であり、首席を争った岸信介我妻栄蠟山政道とは生涯の親友であった。東大在学中に吉野作造民本主義の影響を受け、大正8年(1919年)には、麻生久赤松克麿らと新人会の創設期に参加している。

東京帝大卒業後、弁護士となり、細野三千雄らとともに、日本労働総同盟日本農民組合の法律顧問として、労働争議小作争議で闘い、その過程で賀川豊彦松岡駒吉と出会う。大正10年(1921年)、ナプボルツ時計工場同盟罷業の前後より社会主義に強く傾倒し、日本社会主義同盟に加盟。これにより、内務省警保局は大正11年(1922年)頃に三輪を「思想要注意人」に指定している。

大正15年(1926年労働農民党書記長となり、同年末、同党中間派が集まった日本労農党が発足するとその書記長に就任。中間派無産政党の離合集散の後、昭和7年(1932年)、無産政党の統一体である社会大衆党の創設に参加する。弁護士・法律家の立場を生かして労働組合法案、小作法案・小作組合法案、健康保険法案の策定、工場法の改正などに尽力。昭和12年(1937年)、第20回衆議院議員総選挙に東京で社会大衆党から立候補し、反ファッショと社会民主主義的公約をかかげ、衆議院議員に初当選。その後は政治活動に加え、河合栄治郎の公判の弁護を側面から支援し、ゾルゲ事件では尾崎秀実の親族の依頼を受け、官選弁護人の選任を務めている。

昭和15年(1940年)、日中戦争の激化で社会大衆党が解体後、近衛文麿新体制運動に協力し、太平洋戦争中は大政翼賛会連絡部長、大日本産業報国会厚生部長を歴任する。後に政治的転向と批判されるが、国民生活の安定と労働者擁護の姿勢は貫いていた。

戦後は公職追放となり弁護士業に専念。極東国際軍事裁判に備えて、岸信介の家族と、実弟の佐藤栄作からの依頼により、岸信介の弁護を担当している[2]。追放解除後、昭和26年(1951年)、第二東京弁護士会会長および日本弁護士連合会副会長に就任し、東大病院輸血梅毒事件の弁護、昭和電工事件では西尾末広の弁護などを行う。

昭和27年(1952年)、第25回衆議院議員総選挙において旧東京3区(目黒・世田谷が地域であった)から衆議院議員に返り咲くと、右派社会党の重鎮として活躍。昭和30年(1955年)、鈴木茂三郎河上丈太郎らと左右社会党の統一を成し遂げる。「寝業師」と揶揄されながらも左派党員と誠実に交渉を重ね、悲願の統一実現を影で支えた。

「三輪投げ」と呼ばれる豪快な投げ技で鳴らした柔道家だったが、統一に伴う心労などが重なり、昭和31年(1956年)11月14日、肺臓癌により東大病院において死去。享年61。日本社会党党葬が営まれた。

エピソード

1955年

岸信介は、親友である三輪と連絡を取り合って二大政党制を目指し1955年、三輪は社会党再統一、岸は保守合同自由民主党結成)を成し遂げた(55年体制)。しかしその翌年、三輪は世を去った。岸は三輪の葬儀において自ら買って出て弔辞を読み、「本当に残念だ。これで政権を渡す相手がいなくなった」と嘆いた。孫の安倍晋三も『美しい国へ』(文藝春秋、2006年)の中で、岸政権下で初めて成立した国民年金法の背後に、社会保障政策に尽力したライバル・親友の三輪の存在があったのではと指摘する。

翻訳

親族

子に建築家の三輪正弘、医学者の三輪史朗がいる。孫の三輪建二は『祖父三輪寿壮』をまとめている。

伝記

  • 『三輪寿壮の生涯』三輪寿壮伝記刊行会編 三輪寿壮伝記刊行会、1966年。
  • 三輪建二『祖父 三輪寿壮―大衆と歩んだ信念の政治家』鳳書房、2017年。

脚注

参考文献

  • 内務省警保局編『思想要注意人名簿』1922年頃。
  • 「自分も社労族の端くれですー70年目の首相 アベノミクス2)」朝日新聞 2015年11月21日
  • 坂野潤治『近代日本の構造ー同盟と格差』講談社現代新書、2018年
  • 間宮悠紀雄「弁護士三輪寿壮と公職追放特免申請書ー書評 祖父三輪寿壮」『改革者』2018年9月
  • 山𦚰直司「書評 祖父三輪寿壮ー大衆と歩んだ信念の政治家」『共生科学研究』14号、2018年
  • 鯨岡仁『安倍晋三と社会主義』朝日新書、2020年

関連項目

外部リンク