「中央公論」の版間の差分
書誌情報 |
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| 松下英麿 || 1943年 || 1944年 |
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| 畑中繁雄 || 1946年 || 1947年 |
| 畑中繁雄 || 1946年 || 1947年 |
2020年8月12日 (水) 04:45時点における版
中央公論 | |
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刊行頻度 | 月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
出版社 | 中央公論新社 |
刊行期間 | 1887年 – 現在 |
ウェブサイト | http://www.chuokoron.jp/ |
『中央公論』(ちゅうおうこうろん)は、1887年に日本で創刊され、現在も発行されている、月刊総合雑誌である。現在は中央公論新社が発行する。
歴史
反省会雑誌/反省雑誌
前身は、西本願寺系の普通教校(龍谷大学の前身)で高楠順次郎らの学生有志が禁酒と仏教徒の綱紀粛正を目的として1886年に組織した「反省会」の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』[1]。禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。1887年創刊、1892年に東京に進出し、『反省雑誌』と改題、口絵を尾形月耕、月岡耕漁らが描いていた。
中央公論(戦前)
1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介や菊池寛をいち早く起用した。
大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。
マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。
第二次世界大戦中、横浜事件が起こり、1944年、軍部の勧告により『改造』と共に廃刊される。
戦後
終戦後の1946年に復刊した。現在に至るまで様々な評論、小説が掲載される総合雑誌として継続している。
1960年同誌に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」のため、右翼によって社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡する事件が起こり(風流夢譚事件)、続けて同社が『思想の科学』の天皇制特集号の刊行をとりやめるなどして、天皇制への批判は同誌ではタブーとなった(粕谷一希『中央公論社と私』)。
1999年、発行元の株式会社中央公論社が経営危機に陥り、旧中央公論社の出版・営業など一切の事業を読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の全額出資で設立された新会社「中央公論新社」に譲り受ける(旧中央公論社は特別清算され、解散時の商号は『株式会社平成出版』と称していた)。これに伴い、読売新聞の販売店でも『中央公論』を取り扱うようになった。
読売新聞傘下に入り、読売新聞社発行の総合誌『This is 読売』(1990年創刊)と月刊論壇誌がグループ内で重複することになったことから、両誌は統一されることになった。『This is 読売』は1999年3月に廃刊され、『中央公論』が存続誌となったが、上記経緯上それまでの『中央公論』の中道的論調は排され、『This is 読売』の論調であった右派・保守的な色彩を帯びるようになった[2]。
嶋中事件(風流夢譚事件)
1960年(昭和35年)に『中央公論』に深沢七郎「風流夢譚」が掲載されたことに端を発する嶋中事件は、岸信介首相襲撃事件、浅沼稲次郎暗殺事件など、安保闘争に対抗するかのような一連の右翼テロの一つであった。
読者数
『中央公論』の1954年以後の最大実売数は14万部弱(1965年11月号の80周年記念号と1970年12月号)である[3]。実売数は、1960年-1963年頃までは10万部弱、1963年9月頃から10万部を超え、1965年末には14万部に達した。驚異的な売り上げと言われた『世界』の「講和問題特集号が」公称15万部であり、当時の『中央公論』はそれに近い部数を毎月得ていた[4]。
- 愛読月刊誌ランキング
実施年 | 世界 | 中央公論 | 改造 | 文藝春秋 |
---|---|---|---|---|
1947 | 調査無し | 調査無し | 調査無し | 調査無し |
1948 | 24位 | 14位 | 15位 | 8位 |
1949 | ランク圏外 | 12位 | 13位 | 8位 |
1950 | 26位 | 10位 | 12位 | 3位 |
1951 | 23位 | 11位 | 13位 | 1位 |
1952 | 21位 | 9位 | 13位 | 2位 |
1953 | 16位 | 11位 | 17位 | 2位 |
1954 | 15位 | 11位 | 19位 | 2位 |
1955 | 15位 | 12位 | 廃刊 | 2位 |
1956 | 18位 | 12位 | 廃刊 | 2位 |
1957 | 18位 | 11位 | 廃刊 | 2位 |
1958 | ランク圏外 | 12位 | 廃刊 | 3位 |
1959 | 19位 | 10位 | 廃刊 | 3位 |
1960 | 19位 | 9位 | 廃刊 | 2位 |
1961 | 19位 | 15位 | 廃刊 | 2位 |
1962 | 19位 | 11位 | 廃刊 | 2位 |
1963 | 29位 | 12位 | 廃刊 | 2位 |
1964 | 20位 | 10位 | 廃刊 | 2位 |
1965 | 23位 | 12位 | 廃刊 | 1位 |
1966 | 19位 | 9位 | 廃刊 | 1位 |
1967 | 17位 | 10位 | 廃刊 | 1位 |
1968 | 21位 | 10位 | 廃刊 | 1位 |
1969 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1970 | 25位 | 25位 | 廃刊 | 1位 |
1971 | 23位 | 13位 | 廃刊 | 1位 |
1972 | 27位 | 12位 | 廃刊 | 2位 |
1973 | 29位 | 14位 | 廃刊 | 1位 |
1974 | ランク圏外 | 17位 | 廃刊 | 1位 |
1975 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1976 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1977 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1978 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1979 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1980 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1981 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1982 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1983 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1984 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1985 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1985 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
実施年 | 世界 | 中央公論 | 改造 | 文藝春秋 |
---|---|---|---|---|
1947 | 2位 | 3位 | 5位 | 6位 |
1948 | 13位 | 15位 | 12位 | 7位 |
1949 | 22 | 12位 | 13位 | 8位 |
1950 | 26位 | 10位 | 13位 | 3位 |
1951 | 22位 | 12位 | 14位 | 2位 |
1952 | ランク圏外 | 9位 | 14位 | 1位 |
1953 | 18位 | 12位 | 19位 | 3位 |
1954 | 16位 | 12位 | 18位 | 3位 |
1955 | 18位 | 13位 | 廃刊 | 3位 |
1956 | 20位 | 12位 | 廃刊 | 3位 |
1957 | 19位 | 12位 | 廃刊 | 3位 |
1958 | ランク圏外 | 12位 | 廃刊 | 4位 |
1959 | 20位 | 10位 | 廃刊 | 4位 |
1960 | 20位 | 10位 | 廃刊 | 2位 |
1961 | 19位 | 11位 | 廃刊 | 2位 |
1962 | 22位 | 12位 | 廃刊 | 2位 |
1963 | 33位 | 13位 | 廃刊 | 2位 |
1964 | 22位 | 12位 | 廃刊 | 1位 |
1965 | 23位 | 12位 | 廃刊 | 1位 |
1966 | 22位 | 10位 | 廃刊 | 1位 |
1967 | 18位 | 10位 | 廃刊 | 1位 |
1968 | 24位 | 9位 | 廃刊 | 1位 |
1969 | 22位 | 9位 | 廃刊 | 1位 |
1970 | 27位 | 17位 | 廃刊 | 1位 |
1971 | 27位 | 12位 | 廃刊 | 1位 |
1972 | 27位 | 15位 | 廃刊 | 2位 |
1973 | 31位 | 11位 | 廃刊 | 1位 |
1974 | ランク圏外 | 18位 | 廃刊 | 1位 |
1975 | 37位 | 17位 | 廃刊 | 1位 |
1976 | 50位 | 27位 | 廃刊 | 1位 |
1977 | 47位 | 16位 | 廃刊 | 1位 |
1978 | ランク圏外 | 27位 | 廃刊 | 1位 |
1979 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1980 | 調査無し | 調査無し | 廃刊 | 調査無し |
1981 | ランク圏外 | 21位 | 廃刊 | 1位 |
1982 | ランク圏外 | 35位 | 廃刊 | 1位 |
1983 | ランク圏外 | ランク圏外 | 廃刊 | 1位 |
1984 | ランク圏外 | 39位 | 廃刊 | 1位 |
1985 | ランク圏外 | ランク圏外 | 廃刊 | 1位 |
1985 | ランク圏外 | ランク圏外 | 廃刊 | 1位 |
『朝日新聞』論壇時評との関係
三島由紀夫は、『中央公論』1968年7月号で70枚の論文「文化防衛論」を発表したが、小汀利得との対談で以下のように述べている。
読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。朝日は長洲一二さんがやっていますが一行もとりあげないし、毎日は社内記者がやっていますが、やはり一行もふれない。そうすると、一つの現象があって、この目鼻立ちがいいか悪いかわかりませんが、そこに人間がいることは確かなんですね。それを黙殺するということは、たぶんに意識的だ。意識的な態度にちがいないと思うのは、あるいは私のウヌボレかも知れません。その辺が、こっちがウヌボレで、つまり偏向だという場合と、それから実際に偏向である場合の区別がつけにくいんですね。これは実にむずかしい。私がそんなことをいうと、「あの野郎はつまらんものを書きやがって、ウヌボレやがって、とり上げられないのは当たり前だ」ということになる。じゃ第三者から見た場合はどうかというと、その第三者の中に右も左もいる。いいという奴と、黙殺するのが当然という奴がいるかもしれない。第三者だって公平とはいえない。言論の偏向ということは実にむずかしい。 — 「天に代わりて」『尚武のこころ』、p4-p5
辻村明による『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)の量的分析は以下のようになる[6]。
- 雑誌別言及頻度
- 『世界』1390
- 『中央公論』1072
- 『朝日ジャーナル』(注:1959年3月15日号創刊)556
- 『文藝春秋』467
- 否定的に取り上げらた割合
- 『改造』19%
- 『自由』15%
- 『文藝春秋』13%
- 『中央公論』10%
- 『世界』5%
『朝日新聞』論壇時評において『中央公論』は多く取り上げられているが、否定的に取り上げられるケースが多く、辻村明は以下のように評している[7]。
『中公』も現実主義路線として批判されることが多かったので、このような悪い評価が比較的高くなるのであるが、『文春』『自由』となると、反左翼的、あるいは右翼反動的な雑誌として、悪い評価が一層高くなっている。『自由』が目の仇にされている様子が窺われる。(中略)『諸君!』『正論』も『自由』とほぼ同じ傾向の雑誌であり、ほとんど論壇時評にとりあげられないが、(中略)編集方針が論壇時評の担当者の意に添わないことの結果でもあろう。それはやはり比較的若い『現代の芽』や『現代の理論』がベストテンに入っていることと対照的である。 — 「朝日新聞の仮面」『諸君!』1982年1月号
1981年1月(高畠通敏)〜2009年2月(松原隆一郎)まで論壇時評者14人の言及した上位15誌は以下となる[8]。
順位 | 雑誌名 | 総数 | 肯定的言及 | 否定的言及 |
---|---|---|---|---|
1 | 世界 | 460 | 93.7% | 6.3% |
2 | 中央公論 | 355 | 85.6% | 14.4% |
3 | エコノミスト | 222 | 95.5% | 4.5% |
4 | 文藝春秋 | 143 | 90.2% | 9.8% |
5 | 朝日ジャーナル | 91 | 98.9% | 1.1% |
6 | Voice | 80 | 86.3% | 13.8% |
6 | 諸君! | 80 | 82.5% | 17.5% |
8 | 論座 | 73 | 89.0% | 11.0% |
9 | 現代思想 | 51 | 94.1% | 5.9% |
9 | 週刊東洋経済 | 51 | 92.2% | 7.8% |
11 | 月刊現代 | 46 | 93.5% | 6.5% |
12 | 月刊Asahi | 39 | 94.9% | 5.1% |
13 | アスティオン | 34 | 97.1% | 2.9% |
13 | 潮 | 34 | 85.3% | 14.7% |
15 | 正論 | 33 | 84.8% | 15.2% |
相変わらず、『世界』と『中央公論』が多く取り上げられており、論壇時評者14人のうち9人が最も多く言及したのは『世界』であり、残りの論壇時評者の多くは『中央公論』を最も多く言及したが、その場合は『世界』の言及頻度は2位となる[9]。
歴代編集長
氏名 | 就任年 | 退任年 | |
---|---|---|---|
武田福松 | 1899年 | 1903年 | |
麻田駒之助 | 1904年 | ||
高山覚威 | 1905年 | ||
麻田駒之助 | 1906年 | 1912年 | |
滝田樗陰 | 1912年 | 1925年 | |
高野敬録 | 1925年 | 1926年 | |
嶋中雄作 | 1927年 | 1928年 | 主幹 |
木佐木勝 | 1927年 | 1929年 | |
雨宮庸蔵 | 1929年 | 1932年 | |
荒川竹志 | 1932年 | ||
佐藤観次郎 | 1933年 | 1936年 | |
雨宮庸蔵 | 1937年 | 1938年 | |
小森田一記 | 1938年 | 1940年 | |
松下英麿 | 1940年 | 1941年 | |
畑中繁雄 | 1941年 | 1943年 | |
松下英麿 | 1943年 | 1944年 | |
蠟山政道 | 1945年 | 1946年 | |
畑中繁雄 | 1946年 | 1947年 | |
山本英吉 | 1947年 | 1949年 | |
篠原敏之[10] | 1949年 | 1953年 | |
藤田圭雄 | 1953年 | 1954年 | |
嶋中鵬二 | 1954年 | 1957年 | |
竹森清 | 1957年 | 1960年 | |
嶋中鵬二 | 1961年 | ||
笹原金次郎 | 1961年 | 1965年 | |
宮脇俊三 | 1965年 | 1967年 | |
粕谷一希 | 1967年 | 1970年 | |
島村力 | 1970年 | 1972年 | |
笹原金次郎 | 1972年 | 1973年 | |
粕谷一希 | 1973年 | 1976年 | |
青柳正美 | 1976年 | 1983年 | |
望月重威 | 1983年 | 1985年 | |
近藤大博 | 1985年 | 1988年 | |
平林孝 | 1988年 | 1990年 | |
青柳正美 | 1990年 | 1991年 | |
宮一穂 | 1991年 | 1997年 | |
平林敏男 | 1997年 | ||
湯川有紀子 | 1997年 | 1999年 | |
宮一穂 | 1999年 | 2001年 | |
河野通和 | 2001年 | 2004年 | |
間宮淳 | 2004年 | 2011年 | |
木佐貫治彦 | 2011年 | 2014年 | |
安部順一 | 2014年 |
脚注
- ^ 平井金三における明治仏教の国際化に関する宗教史・文化史的研究吉永進一ほか、科研報告書、平成 16年度 ~18年度
- ^ 佐藤都「日本の総合雑誌3誌の数量・内容分析からみる日本人の中国に対する関心の変遷」『Sauvage : 北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集』第8号、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集制作委員会、2012年3月、100-108頁。p100
- ^ 竹内 2011, p. 81.
- ^ 竹内 2011, p. 64.
- ^ a b 竹内 2011, p. 82.
- ^ 竹内 2011, p. 117.
- ^ 竹内 2011, p. 119.
- ^ a b 竹内 2011, p. 446.
- ^ 竹内 2011, p. 447.
- ^ 俳人篠原梵
参考文献
- 竹内, 洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。
外部リンク
- 中央公論
- 稀書と大学歴史資料展 3 龍谷大学展示室