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「劉懋 (北魏)」の版間の差分

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'''劉 懋'''(りゅう ぼう、生年不詳 - [[517年]])は、[[北魏]]の[[官僚]]・[[学者]]。[[字]]は仲華。[[本貫]]は[[彭城郡]]彭城県叢亭里。従兄弟は[[劉思祖]]・[[劉キン (北魏)|劉廞]]。
'''劉 懋'''(りゅう ぼう、生年不詳 - [[517年]])は、[[北魏]]の[[官僚]]・[[学者]]。[[字]]は仲華。[[本貫]]は[[彭城郡]]彭城県叢亭里。従兄弟は[[劉思祖]]・[[劉廞]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2020年8月12日 (水) 00:00時点における版

劉 懋(りゅう ぼう、生年不詳 - 517年)は、北魏官僚学者は仲華。本貫彭城郡彭城県叢亭里。従兄弟は劉思祖劉廞

経歴

南朝宋に仕えた劉承伯(北魏の太常卿の劉芳の伯父の劉泰之の子)の子として生まれた。聡明で物わかりが早く、学問を好んで経書史書を広く渉猟し、草書隷書を得意とし、変わった字を多く知っていた。宣武帝の初年に入朝し、員外郎に任じられた。尚書外兵郎中に転じ、軽車将軍の号を加えられた。尚書における議論では、劉懋と殿中郎の袁翻が常に議論を主導した。劉懋は歩兵校尉に転じ、郎中や東宮中舎人を兼ねた。員外常侍・鎮遠将軍に転じ、考功郎中を兼ねた。劉懋は尚書の李平とのあいだに莫逆の友情を結んだ。

516年熙平元年)、李平が軍を率いて硤石を攻撃すると、劉懋は李平の下で行台郎中をつとめた。城を陥落させるにあたって、劉懋は功績を挙げた。洛陽に凱旋すると、孝明帝の命を受けて儀令の選定にあたった。清河王元懌は劉懋が将来北魏の宰相となると見込んでおり、その礼遇は最も丁重であった。、劉懋は元懌の諸子の師をつとめた。太尉司馬に転じた。517年(熙平2年)冬、突然の病のため死去した。持節・前将軍・南秦州刺史の位を追贈された。は宣簡といった。編著として器物の造作を解説した『物祖』15巻があった。

子女

  • 劉筠(字は士貞、河南郡丞・中散大夫・徐州大中正・秘書丞を歴任した)
  • 劉筟(字は士文、秘書郎)

伝記資料