コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「杜子春 (学者)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
'''杜 子春'''(と ししゅん)は、[[後漢]]の学者。[[劉キン (学者)|劉歆]]の起こした『[[周礼]]』の学問を[[後漢]]時代に伝えた。
'''杜 子春'''(と ししゅん)は、[[後漢]]の学者。[[劉歆]]の起こした『[[周礼]]』の学問を[[後漢]]時代に伝えた。


== 略歴 ==
== 略歴 ==

2020年8月11日 (火) 23:59時点における版

杜 子春(と ししゅん)は、後漢の学者。劉歆の起こした『周礼』の学問を後漢時代に伝えた。

略歴

漢書』『後漢書』は杜子春について何も伝えていない。賈公彦『周礼注疏』序周礼廃興に引く馬融の「伝」に略歴を載せる。それによれば、杜子春は河南緱氏(今の洛陽市偃師)の人で、劉歆に『周礼』を学んだ。後漢のはじめに劉歆の弟子はほとんどが死にたえたが、杜子春は明帝永平年間(58-75年)のはじめにまだ生きており、年齢は90歳ちかくだった。古文学者の鄭衆賈逵はいずれも杜子春に『周礼』を学んだ[1]

経典釈文』の説明もほぼ同じであるが、賈逵ではなく鄭興・鄭衆親子が杜子春に『周礼』を学んだとしている。

杜子春の著作は残っていないが、『周礼』の鄭玄注のなかに鄭興・鄭衆に並んで杜子春の説が数多く引用されている。馬国翰『玉函山房輯佚書』に杜子春の説が集められている[2]

脚注

  1. ^ 賈公彦『周礼注疏』序周礼廃興「是以馬融伝云(中略)奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪。徒有里人河南緱氏杜子春、尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆・賈逵往受業焉。」
  2. ^ 馬国翰「周礼杜氏注二巻」『玉函山房輯佚書』https://archive.org/stream/02097596.cn#page/n2/mode/2up  (archive.org)

関連項目