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[[平帝 (漢)|平帝]]の代に、蘇竟は、『[[易経]]』に明るかったことから、博士講書([[尚書]])祭酒となった。図緯(預言書)に長じ、百家の言に通じていた。[[王莽]]が[[新]]を創始すると、[[劉歆]]らと共に校書(書物を比較考量して、異同や正誤をただす)をつかさどり、代郡中尉に任命された。この時、[[匈奴]]が辺境で盛んに活動していたが、蘇竟は代郡を善く保った。


[[光武帝]]が即位すると、蘇竟は代郡[[太守]]に任命され、やはり塞を守備して匈奴の進攻を防いだ。[[建武 (漢)|建武]]5年([[29年]])冬、[[盧芳]]が北方諸郡を攻略してきたため、光武帝は偏将軍隨弟も代郡に駐屯させた。この時、蘇竟は重病にかかっていたため、軍を隨弟に委ね、[[洛陽]]に帰還して光武帝に謝罪した。その後、侍中に任命されたが、やはり病のために数月で罷免された。
[[光武帝]]が即位すると、蘇竟は代郡[[太守]]に任命され、やはり塞を守備して匈奴の進攻を防いだ。[[建武 (漢)|建武]]5年([[29年]])冬、[[盧芳]]が北方諸郡を攻略してきたため、光武帝は偏将軍隨弟も代郡に駐屯させた。この時、蘇竟は重病にかかっていたため、軍を隨弟に委ね、[[洛陽]]に帰還して光武帝に謝罪した。その後、侍中に任命されたが、やはり病のために数月で罷免された。

2020年8月11日 (火) 23:58時点における版

蘇 竟(そ きょう、生没年不詳)は、中国前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家、武将。字は伯況司隷扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。

事跡

姓名 蘇竟
時代 前漢時代 - 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 伯況(字)
本貫・出身地等 司隷扶風平陵県
職官 博士講書(尚書)祭酒〔前漢〕

→代郡中尉〔新〕→代郡太守〔後漢〕
→侍中〔後漢〕

爵位・号等 -
陣営・所属等 平帝孺子嬰王莽光武帝
家族・一族 〔不詳〕

平帝の代に、蘇竟は、『易経』に明るかったことから、博士講書(尚書)祭酒となった。図緯(預言書)に長じ、百家の言に通じていた。王莽を創始すると、劉歆らと共に校書(書物を比較考量して、異同や正誤をただす)をつかさどり、代郡中尉に任命された。この時、匈奴が辺境で盛んに活動していたが、蘇竟は代郡を善く保った。

光武帝が即位すると、蘇竟は代郡太守に任命され、やはり塞を守備して匈奴の進攻を防いだ。建武5年(29年)冬、盧芳が北方諸郡を攻略してきたため、光武帝は偏将軍隨弟も代郡に駐屯させた。この時、蘇竟は重病にかかっていたため、軍を隨弟に委ね、洛陽に帰還して光武帝に謝罪した。その後、侍中に任命されたが、やはり病のために数月で罷免された。

あるとき、延岑の護軍鄧仲況が、陰県(南陽郡)に割拠し、劉歆の兄の子である劉龔を首謀者(「謀主」)として擁立していた。南陽に在った蘇竟は、鄧仲況宛てにこれを諌める長文の書簡を送り、ついに劉龔と鄧仲況を降伏させてしまった。しかし蘇竟はこの功績を誇ろうともせず、道術を密かに楽しみ、記述の指導書(「記誨篇」)や文章を世に伝えた。没年は不明であるが、年70で死去している。

参考文献