コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「賀訥」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 拓跋部の各人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (拓跋什翼犍) - log
 
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
賀野干の子として生まれた。[[376年]](建国39年)、[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼犍]]が死去すると、献明皇后が[[道武帝|拓跋珪]]や[[拓跋儀]]・[[拓跋觚]]らを連れて、賀蘭部を頼ってきた。拓跋珪が[[独孤部]]のもとに帰ると、賀訥は東部大人となり、大寧に移転して、多くの人々を帰順させ、[[劉庫仁]]に従った。[[前秦]]の[[苻堅]]から仮の鷹揚将軍の号を受けた。
賀野干の子として生まれた。[[376年]](建国39年)、[[拓跋什翼犍]]が死去すると、献明皇后が[[道武帝|拓跋珪]]や[[拓跋儀]]・[[拓跋觚]]らを連れて、賀蘭部を頼ってきた。拓跋珪が[[独孤部]]のもとに帰ると、賀訥は東部大人となり、大寧に移転して、多くの人々を帰順させ、[[劉庫仁]]に従った。[[前秦]]の[[苻堅]]から仮の鷹揚将軍の号を受けた。


[[385年]]、[[劉顕 (独孤部)|劉顕]]が拓跋珪の暗殺を謀ったが、事前に漏れて拓跋珪は賀蘭部に避難した。賀訥は拓跋珪を迎えて支持を表明し、反発する弟の賀染干を抑えた。[[386年]]([[登国]]元年)、人々とともに拓跋珪に王位に登るよう勧進し、拓跋珪は牛川で代王の位に登った。
[[385年]]、[[劉顕 (独孤部)|劉顕]]が拓跋珪の暗殺を謀ったが、事前に漏れて拓跋珪は賀蘭部に避難した。賀訥は拓跋珪を迎えて支持を表明し、反発する弟の賀染干を抑えた。[[386年]]([[登国]]元年)、人々とともに拓跋珪に王位に登るよう勧進し、拓跋珪は牛川で代王の位に登った。

2020年8月11日 (火) 10:22時点における最新版

賀 訥(が とつ、生没年不詳)は、北魏外戚献明賀皇后の兄。賀蘭部の出身。本貫代郡

経歴

[編集]

賀野干の子として生まれた。376年(建国39年)、拓跋什翼犍が死去すると、献明皇后が拓跋珪拓跋儀拓跋觚らを連れて、賀蘭部を頼ってきた。拓跋珪が独孤部のもとに帰ると、賀訥は東部大人となり、大寧に移転して、多くの人々を帰順させ、劉庫仁に従った。前秦苻堅から仮の鷹揚将軍の号を受けた。

385年劉顕が拓跋珪の暗殺を謀ったが、事前に漏れて拓跋珪は賀蘭部に避難した。賀訥は拓跋珪を迎えて支持を表明し、反発する弟の賀染干を抑えた。386年登国元年)、人々とともに拓跋珪に王位に登るよう勧進し、拓跋珪は牛川で代王の位に登った。

389年(登国4年)、拓跋珪が吐突隣部を討つと、賀訥の兄弟は拓跋珪にそむいて、吐突隣部の救援に向かった。拓跋珪は賀訥兄弟を撃破し、賀訥は西に逃れた。390年(登国5年)、劉衛辰の子の劉直力鞮が賀訥を攻撃してきた。賀訥が拓跋珪に降伏を申し出ると、拓跋珪は騎兵を率いて賀訥を救援した。賀訥の部落と弟たちは居住地を東の境に移した。賀訥はまた拓跋珪から離れて、後燕慕容垂に通じ、帰善王とされた。賀訥の弟の賀染干は賀訥を殺して賀蘭部を掌握しようと図り、そのため賀訥は弟と攻撃しあうようになった。391年(登国6年)、慕容垂は子の慕容麟に賀蘭部を討たせると、慕容麟は賀染干を牛川で破り、賀訥を赤城で撃破した。拓跋珪が賀訥を救援したため、慕容麟は撤退した。賀訥は拓跋珪の河北平定に協力し、安遠将軍の号を受けた。

以後、元舅として北魏の朝廷で尊重されたが、兵を率いることはなかった。家で寿命を全うした。

伝記資料

[編集]
  • 魏書』巻83上 列伝第71上
  • 北史』巻80 列伝第68