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代の南部大人の長孫仁の子として生まれた。14歳で父に代わって軍を率い、後に南部大人の号を嗣いだ。[[376年]]([[建国 (代)|建国]]39年)、[[拓跋什翼犍]]が殺害され、代国が[[前秦]]の支配下に入り、[[苻堅]]が代国を二分して[[劉庫仁]]と[[劉衛辰]]に統治させると、長孫嵩は元他らとともに劉庫仁に従った。 |
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[[385年]]、[[劉顕 (独孤部)|劉顕]]が[[劉眷]]を殺害すると、長孫嵩は700家あまりを率いて劉顕に従おうと五原に向かったが、[[拓跋寔君]]の子が自立したと聞いて、これに帰順しようとした。さらに于烏渥に面会すると、[[道武帝|拓跋珪]]に帰順するよう勧められた。長孫嵩は帰属先を決めかねて、牛の首を回す占いの結果に従って、拓跋珪と三漢亭で面会した。[[386年]]([[登国]]元年)、拓跋珪(道武帝)が代王として即位すると、長孫嵩は再び南部大人となった。 |
2020年8月11日 (火) 10:22時点における版
長孫 嵩(ちょうそん すう、358年 - 437年)は、代から北魏にかけての軍人・政治家。本貫は代郡。
経歴
代の南部大人の長孫仁の子として生まれた。14歳で父に代わって軍を率い、後に南部大人の号を嗣いだ。376年(建国39年)、拓跋什翼犍が殺害され、代国が前秦の支配下に入り、苻堅が代国を二分して劉庫仁と劉衛辰に統治させると、長孫嵩は元他らとともに劉庫仁に従った。
385年、劉顕が劉眷を殺害すると、長孫嵩は700家あまりを率いて劉顕に従おうと五原に向かったが、拓跋寔君の子が自立したと聞いて、これに帰順しようとした。さらに于烏渥に面会すると、拓跋珪に帰順するよう勧められた。長孫嵩は帰属先を決めかねて、牛の首を回す占いの結果に従って、拓跋珪と三漢亭で面会した。386年(登国元年)、拓跋珪(道武帝)が代王として即位すると、長孫嵩は再び南部大人となった。
391年(登国6年)、道武帝が柔然に対する北伐をおこなうと、長孫嵩はこれに従軍し、大磧の南の牀山のふもとで柔然を撃破した。長孫嵩は長孫肥とともに柔然を追撃し、平望川で柔然の部帥の屋撃を捕らえて斬った。392年(登国7年)、西部泣黎大人の茂鮮が反乱を起こすと、長孫嵩はこれを撃破した。397年(皇始2年)、後燕に対する親征に参加して、中山を陥落させると、長孫嵩は冀州刺史に任じられ、鉅鹿公の爵位を受けた。398年(天興元年)1月、右軍将軍の尹国先が冀州で反乱を計画したため、長孫嵩はこれを捕らえて道武帝のもとに送った。4月、司徒に上った。後に相州刺史に転じ、南平公に封じられた。
409年(永興元年)、明元帝が即位すると、長孫嵩は山陽侯奚斤・北新侯安同・白馬侯崔宏ら8人とともに、車を宮殿の門の右にそろって止め、国人の訴えを聴いて審理したため、当時に八公と称された。410年(永興2年)、柔然に対する北伐の主将をつとめた。南に帰る途中に柔然の追撃を受け、牛川で包囲を受けた。明元帝が出撃して長孫嵩を救援したため、柔然の社崙は包囲を解いて敗走した。
417年(泰常2年)、東晋の劉裕が後秦の姚泓を討つべく北伐してくると、長孫嵩は明元帝から仮節を受け、督山東諸軍事となり、平原から黄河の北岸に沿って進軍し、畔城に入ったが、劉裕の軍に敗れた。この年の秋、劉裕が西進して秦軍と対峙し、北魏では平城から叔孫建らが派遣されて、長孫嵩と合流した。長孫嵩は叔孫建らとともに成皋から済水を南に渡り、東晋の諸城を陥落させて劉裕の後背を脅かした。劉裕が長安を落とすと、長孫嵩は軍を返した。
422年(泰常7年)、明元帝が病床につくと、長孫嵩は帝に後事を問われて、皇長子の拓跋燾を世嫡として立てるよう勧めた。泰平王拓跋燾が明元帝に代わって朝議に臨み、監国をつとめるようになると、長孫嵩はその下で左輔となった。423年(泰常8年)、拓跋燾(太武帝)が即位すると、長孫嵩は北平王の爵位を受け、司州中正となった。
太武帝が夏と柔然のどちらを先に攻撃するべきか諮問すると、長孫嵩は長孫翰や奚斤らとともに柔然を先に攻撃するよう勧めた。425年(始光2年)3月、太尉に上った。この年のうちに赫連勃勃が死去し、関中が混乱したため、太武帝は寇謙之・杜超・崔浩らの意見を容れて、夏に対する遠征を決定した。長孫嵩は強く諫めたが、帝の怒りを買って、汚職の罪を負わされて恥辱を受けた。429年(神䴥2年)、太武帝が北伐すると、長孫嵩は広陵公楼伏連とともに平城の留守をつとめた。431年(神䴥4年)、柱国大将軍の号を加えられた。
437年(太延3年)1月、死去した。享年は80。諡は宣王といった。
子女
- 長孫頽(後嗣、北平王、侍中・征南大将軍、442年に罪に問われて侯に降封されたが、後に復爵した)
- 長孫陵(蜀郡公、左光禄大夫・征東大将軍、青州刺史)