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「拓跋順」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼犍]]の子の拓跋地干の子として生まれた。[[登国]]初年、南安公の爵位を受けた。[[396年]]([[皇始 (北魏)|皇始]]元年)、[[道武帝]]が[[後燕]]を攻撃すると、順は[[ホリンゴル県|盛楽]]の留守をつとめた。[[397年]](皇始2年)、柏肆の戦いの敗北で道武帝の所在が不明になると、順は自立しようと考えたが、[[莫題]]に諫められて取りやめた。賀力眷らが陰館で反乱を起こしたため、順は反乱軍を討ったが勝利できず、白登の南から繁畤の故城に入り、㶟水に阻止線を張った。[[398年]]([[天興 (北魏)|天興]]元年)4月、毗陵王に封じられた。[[402年]](天興5年)、鎮西大将軍として[[後秦]]の姚平を討った。[[司隷校尉]]となった。道武帝は黄老道を好んで、諸王や朝臣を招いてたびたび道を説いた。順はひとりその場で寐に座って欠伸していたため、道武帝の怒りを買って、[[403年]](天興6年)に邸に蟄居させられた。後に自邸で死去した。
[[拓跋什翼犍]]の子の拓跋地干の子として生まれた。[[登国]]初年、南安公の爵位を受けた。[[396年]]([[皇始 (北魏)|皇始]]元年)、[[道武帝]]が[[後燕]]を攻撃すると、順は[[ホリンゴル県|盛楽]]の留守をつとめた。[[397年]](皇始2年)、柏肆の戦いの敗北で道武帝の所在が不明になると、順は自立しようと考えたが、[[莫題]]に諫められて取りやめた。賀力眷らが陰館で反乱を起こしたため、順は反乱軍を討ったが勝利できず、白登の南から繁畤の故城に入り、㶟水に阻止線を張った。[[398年]]([[天興 (北魏)|天興]]元年)4月、毗陵王に封じられた。[[402年]](天興5年)、鎮西大将軍として[[後秦]]の姚平を討った。[[司隷校尉]]となった。道武帝は黄老道を好んで、諸王や朝臣を招いてたびたび道を説いた。順はひとりその場で寐に座って欠伸していたため、道武帝の怒りを買って、[[403年]](天興6年)に邸に蟄居させられた。後に自邸で死去した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月11日 (火) 10:21時点における版

拓跋 順(たくばつ じゅん、生没年不詳)は、中国北魏皇族。毗陵王。

経歴

拓跋什翼犍の子の拓跋地干の子として生まれた。登国初年、南安公の爵位を受けた。396年皇始元年)、道武帝後燕を攻撃すると、順は盛楽の留守をつとめた。397年(皇始2年)、柏肆の戦いの敗北で道武帝の所在が不明になると、順は自立しようと考えたが、莫題に諫められて取りやめた。賀力眷らが陰館で反乱を起こしたため、順は反乱軍を討ったが勝利できず、白登の南から繁畤の故城に入り、㶟水に阻止線を張った。398年天興元年)4月、毗陵王に封じられた。402年(天興5年)、鎮西大将軍として後秦の姚平を討った。司隷校尉となった。道武帝は黄老道を好んで、諸王や朝臣を招いてたびたび道を説いた。順はひとりその場で寐に座って欠伸していたため、道武帝の怒りを買って、403年(天興6年)に邸に蟄居させられた。後に自邸で死去した。

伝記資料