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{{Otheruses|北魏の道武帝の皇后|[[代 (五胡十六国)|代]]王[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼犍]](北魏の昭成帝)の妃、[[前燕]]の[[慕容皝]]の娘、本記事の人物の祖父の姉妹|昭成皇后慕容氏}} |
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| 人名 = 慕容皇后 |
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| 人名 = 慕容皇后 |
2020年8月11日 (火) 10:21時点における最新版
慕容皇后(ぼようこうごう、生没年不詳)は、中国北魏の道武帝の皇后。後燕の恵愍帝慕容宝の娘。母は妃嬪の孟氏(北魏で溧陽君となった)。
397年、慕容宝が中山で北魏軍に敗れた。公主の慕容氏は捕虜になるが、道武帝の後宮に入れられて寵愛を受けた。400年(天興3年)、左丞相の衛王拓跋儀らが皇后として立てるよう上奏した。道武帝は朝廷の議論を受け、慕容氏に金人を鋳造させると、完成後に金人が立ったため、皇后に立てた。
- 『魏書』巻13 列伝第1
- 『北史』巻13 列伝第1