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[[369年]]7月、[[東晋]]の大司馬[[桓温]]が前燕征伐の兵を興して[[武陽郡|武陽]]に駐屯すると、前燕の元[[兗州]][[刺史]][[孫元]]は一族郎党を率いて桓温に呼応した。9月、桓温が軍を撤退させると、孫元は武陽に逃走を図った。孟高はこれを攻撃し、孫元を捕縛した。 |
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[[370年]]8月、桓温が前燕の[[揚州 (古代)|揚州]]刺史[[袁瑾]]の守る[[寿春]]を包囲すると、孟高は騎兵を率いて袁瑾救援に向かい、淮北に至った。だが、渡河する前に前燕と前秦の戦争が始まったので、前燕皇帝[[慕容暐]]は孟高を呼び戻した。 |
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11月、[[前秦]]の攻勢により[[鄴]]が陥落すると、慕容暐は城から脱出して[[龍城]]へ向かった。この時、前燕の兵は殆ど散亡してしまったが、孟高は彼の側に侍って護衛した。逃亡は困難を極め、野盗にも襲撃されたが、これと戦いながら前進した。数日して福禄へたどり着き、塚で一休みしていると、20人余りの賊に襲われた。賊はみな弓矢を持っていたが、孟高は刀を抜いて戦い、数人を殺傷した。彼は力を尽くして死に物狂いで奮戦を続け、賊の1人を抱いて地面へ叩きつけると「男たる者が窮しようか!」と叫んだ。だが、残った賊が矢を射掛けると、遂に孟高は射殺された。殿中将軍[[艾朗]]もまた共に奮戦し、戦死した。慕容暐はこの混乱で馬を失ったが、無事に逃げ果せる事ができた。 |
11月、[[前秦]]の攻勢により[[鄴]]が陥落すると、慕容暐は城から脱出して[[龍城]]へ向かった。この時、前燕の兵は殆ど散亡してしまったが、孟高は彼の側に侍って護衛した。逃亡は困難を極め、野盗にも襲撃されたが、これと戦いながら前進した。数日して福禄へたどり着き、塚で一休みしていると、20人余りの賊に襲われた。賊はみな弓矢を持っていたが、孟高は刀を抜いて戦い、数人を殺傷した。彼は力を尽くして死に物狂いで奮戦を続け、賊の1人を抱いて地面へ叩きつけると「男たる者が窮しようか!」と叫んだ。だが、残った賊が矢を射掛けると、遂に孟高は射殺された。殿中将軍[[艾朗]]もまた共に奮戦し、戦死した。慕容暐はこの混乱で馬を失ったが、無事に逃げ果せる事ができた。 |
2020年8月11日 (火) 10:14時点における版
孟 高(もう こう、? - 370年)は、五胡十六国時代前燕の武将・政治家。
生涯
前燕に仕え、左衛将軍に任じられた。
369年7月、東晋の大司馬桓温が前燕征伐の兵を興して武陽に駐屯すると、前燕の元兗州刺史孫元は一族郎党を率いて桓温に呼応した。9月、桓温が軍を撤退させると、孫元は武陽に逃走を図った。孟高はこれを攻撃し、孫元を捕縛した。
370年8月、桓温が前燕の揚州刺史袁瑾の守る寿春を包囲すると、孟高は騎兵を率いて袁瑾救援に向かい、淮北に至った。だが、渡河する前に前燕と前秦の戦争が始まったので、前燕皇帝慕容暐は孟高を呼び戻した。
11月、前秦の攻勢により鄴が陥落すると、慕容暐は城から脱出して龍城へ向かった。この時、前燕の兵は殆ど散亡してしまったが、孟高は彼の側に侍って護衛した。逃亡は困難を極め、野盗にも襲撃されたが、これと戦いながら前進した。数日して福禄へたどり着き、塚で一休みしていると、20人余りの賊に襲われた。賊はみな弓矢を持っていたが、孟高は刀を抜いて戦い、数人を殺傷した。彼は力を尽くして死に物狂いで奮戦を続け、賊の1人を抱いて地面へ叩きつけると「男たる者が窮しようか!」と叫んだ。だが、残った賊が矢を射掛けると、遂に孟高は射殺された。殿中将軍艾朗もまた共に奮戦し、戦死した。慕容暐はこの混乱で馬を失ったが、無事に逃げ果せる事ができた。
後に慕容暐は郭慶に捕らえらて鄴へ送られたが、この時に前秦君主苻堅へ孟高と艾朗が忠義に殉じた事を語った。そのため、苻堅は孟高らを厚く埋葬し、その子らを郎中に抜擢した。