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「燕元」の版間の差分

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'''燕元'''(えんげん)は、[[五胡十六国時代]]、[[後燕]]の君主[[慕容垂]]の治世で使用された[[元号]]。384年正月 - 386年2月。
'''燕元'''(えんげん)は、[[五胡十六国時代]]、[[後燕]]の君主[[慕容垂]]の治世で使用された[[元号]]。384年正月 - 386年2月。


但し、'''燕元'''という元号は『[[晋書]]』慕容垂載記にしか記載は無い。『[[資治通鑑]]』・『[[十六国春秋]]』では、[[前秦]]の'''[[建元 (前秦)|建元]]'''20年を廃して燕の元年を称したと記載があるが、これは紀元を改めたのみであり独自の元号を用いたという記録はない([[後趙]]の[[石勒]]、[[前燕]]の[[慕容コウ|慕容皝]]・[[慕容儁]]、[[代 (五胡十六国)|代]]の[[拓跋什翼犍]]も、王位を称していた時代は同様に元号を用いずに紀元のみ改めるという手法を用いており、それを踏襲したと思われる)。
但し、'''燕元'''という元号は『[[晋書]]』慕容垂載記にしか記載は無い。『[[資治通鑑]]』・『[[十六国春秋]]』では、[[前秦]]の'''[[建元 (前秦)|建元]]'''20年を廃して燕の元年を称したと記載があるが、これは紀元を改めたのみであり独自の元号を用いたという記録はない([[後趙]]の[[石勒]]、[[前燕]]の[[慕容皝]]・[[慕容儁]]、[[代 (五胡十六国)|代]]の[[拓跋什翼犍]]も、王位を称していた時代は同様に元号を用いずに紀元のみ改めるという手法を用いており、それを踏襲したと思われる)。


[[清]]の[[鍾淵映]]の『[[歴代建元考]]』もまた、'''燕元'''は前燕の慕容皝の元号として、[[東晋]]の[[穆帝 (東晋)|穆帝]]の[[永和 (東晋)|永和]]元年([[345年]])に燕元と改元して4年間使用されたものとしている。
[[清]]の[[鍾淵映]]の『[[歴代建元考]]』もまた、'''燕元'''は前燕の慕容皝の元号として、[[東晋]]の[[穆帝 (東晋)|穆帝]]の[[永和 (東晋)|永和]]元年([[345年]])に燕元と改元して4年間使用されたものとしている。

2020年8月11日 (火) 10:05時点における版

燕元(えんげん)は、五胡十六国時代後燕の君主慕容垂の治世で使用された元号。384年正月 - 386年2月。

但し、燕元という元号は『晋書』慕容垂載記にしか記載は無い。『資治通鑑』・『十六国春秋』では、前秦建元20年を廃して燕の元年を称したと記載があるが、これは紀元を改めたのみであり独自の元号を用いたという記録はない(後趙石勒前燕慕容皝慕容儁拓跋什翼犍も、王位を称していた時代は同様に元号を用いずに紀元のみ改めるという手法を用いており、それを踏襲したと思われる)。

鍾淵映の『歴代建元考』もまた、燕元は前燕の慕容皝の元号として、東晋穆帝永和元年(345年)に燕元と改元して4年間使用されたものとしている。

西暦・干支との対照表

燕元 元年 2年 3年
西暦 384年 385年 386年
干支 甲申 乙酉 丙戌

参考文献

  • 『中国歴代年号考』李崇智(中華書局 2004年)


前の元号
中国の元号
後燕
次の元号
建興