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建国2年([[339年]])、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の[[燕鳳]]を長史に、[[許謙]]を[[郎中令]]にそれぞれ任じた。反逆・殺人・強姦・窃盗などの法が明文化され、[[律令]]は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。[[連座]]や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼犍は烏桓を二部に分け、弟の拓跋孤に北部を、庶長子の[[拓跋寔君]]に南部をそれぞれ監督させた。東は[[濊貊]]から西は[[大宛|破落那]]まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。 |
建国2年([[339年]])、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の[[燕鳳]]を長史に、[[許謙]]を[[郎中令]]にそれぞれ任じた。反逆・殺人・強姦・窃盗などの法が明文化され、[[律令]]は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。[[連座]]や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼犍は烏桓を二部に分け、弟の拓跋孤に北部を、庶長子の[[拓跋寔君]]に南部をそれぞれ監督させた。東は[[濊貊]]から西は[[大宛|破落那]]まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。 |
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拓跋什翼犍は、[[前燕]]とも修好を深め、婚姻関係となることを望んだ。燕王の[[慕容皝]]は妹を嫁がせ、拓跋什翼犍は彼女を[[皇后|王后]]に立てた。 |
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2020年8月11日 (火) 10:04時点における版
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代(だい、拼音:Dài)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続いた。
歴史
前史
檀石槐の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭してきたのが拓跋部の起源である。258年、大人の拓跋力微は盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)へ南下し、そこを根拠地とした。彼は周辺部落を服属させ、魏と修好を深めて勢力を大きく拡大させた。だが、その拡大を恐れた衛瓘の離間工作により内部分裂を起こし、勢力は大きく弱体化した。その後3代を重ね、294年に拓跋禄官が大人となった。彼は部族を3分割して自身は東部を、拓跋猗㐌に中部を、拓跋猗盧に西部をそれぞれ統治させた。304年、漢(後の前趙)の劉淵が挙兵すると、司馬騰に協力して劉淵を討った。307年、拓跋禄官が亡くなると、跡を継いだ拓跋猗盧は3分割された拓跋部を再び統一し、自ら大人となった。
拓跋猗盧の時代
310年10月、并州刺史の劉琨は拓跋猗盧へ使者を送り、子の劉遵を人質とさせた。拓跋猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈った。白部大人は叛いて西河に入り、これに応じて匈奴鉄弗部の劉虎は雁門で挙兵、劉琨のいる新興・雁門の2郡を攻撃した。劉琨は拓跋猗盧のもとへ使者を派遣し、腰を低く礼を尽くして救援を求めた。拓跋猗盧は甥の拓跋鬱律に将騎2万を与え、劉琨を助けさせた。拓跋鬱律は白部を大破し、さらに劉虎を攻め、その陣営を落とした。劉虎は西へ奔り、朔方に逃れた。これにより、拓跋猗盧は劉琨と義兄弟の契りを結んだ。劉琨は上表し、拓跋猗盧は大単于・代公に封じられた。しかし、代郡は幽州に属しており、幽州を統治していた王浚はこれを拒絶した。拓跋猗盧は王浚から攻撃を受けたが、これを撃退した。これ以来、王浚と劉琨は敵対するようになった。
劉琨はまた使者を送り洛陽を救うために援軍を求めると、拓跋猗盧は歩騎2万を遣わしてこれを助けた。
代郡は拓跋猗盧の本拠地・盛楽から離れていたため、彼は1万戸余りの部落を率いて、雲中から雁門へ移り、陘北を封地とするよう求めた。劉琨はこれを止めることができず、また拓跋猗盧の兵力を頼みとしていたこともあり、楼煩・馬邑・陰館・繁畤・崞の民を陘南へ移住させ、この5県を拓跋猗盧へ与えた。以来、拓跋猗盧の勢力はさらに増大した。
劉琨は、太傅の司馬越へ使者を派遣し、共に出兵して劉聡と石勒を討とうと持ちかけた。だが、司馬越は青州刺史苟晞と豫州刺史馮崇に背後を突かれることを恐れ、断った。劉琨は征討を諦め、拓跋猗盧へ謝罪し、その兵を本国へ帰らせた。
311年、劉琨の牙門将の邢延は新興で反乱を起こし、劉聡を招き寄せた。拓跋猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聡を退走させた。
312年3月、靳沖・卜珝らが晋陽を攻めると、拓跋猗盧は救援軍を派遣し、これを撃退した。
8月、劉琨は使者を送り、劉聡・石勒を討伐するため援軍を要請した。拓跋猗盧は劉琨に忠義をもってこれを認めた。その間に、劉聡は子の劉易と劉粲および族弟の劉曜を晋陽に派遣し、劉琨の父母を殺しその城を占拠した。劉琨はこのことを報告すると、拓跋猗盧は大いに怒った。10月、長子の拓跋六脩、拓跋猗㐌の子の拓跋普根及び衛雄・范班・箕澹らを前鋒として遣わし、拓跋猗盧は20万を統べ後継となった。劉粲は恐れて、輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した。拓跋六脩は、劉曜と汾東で戦い、これを大いに破った。劉曜・劉粲らは晋陽に戻ったが、夜の間に蒙山を越え、平陽に撤退した。
11月、拓跋猗盧は追撃を掛け、その将の劉儒、劉豊・簡令・張平・邢延を斬り、屍は数百里にもわたった。拓跋猗盧は寿陽山で大規模な狩猟を行った。劉琨は拓跋猗盧の陣営へ拝謝に来て、拓跋猗盧は礼をもってこれをもてなした。
この後、劉粲らは再び攻勢を掛け、遂に晋陽を攻略した。拓跋猗盧は自ら兵を率いて劉粲の軍を破ると、劉琨は再び晋陽へ入城した。拓跋猗盧は劉琨に馬・牛・羊各千頭余りと車百乗を譲ると、将の箕澹・段繁等に晋陽の守備を命じて帰還した。
313年5月、王浚は拓跋猗盧に大金を送り、慕容廆と共に遼西公の段疾陸眷討伐を求めた。拓跋猗盧はこれを容れ、拓跋六脩を派遣させたが、拓跋六脩は段疾陸眷に敗れて撤退した。
6月、拓跋猗盧は劉琨と陘北で会合し、平陽攻略の策を練った。7月、劉琨が藍谷に進むと、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉琨は監軍の韓拠に命じ、西河から南下して平陽西の西平城に向かわた。漢帝劉聡は大将軍の劉粲に劉琨を、驃騎将軍の劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍の蘭陽に西平城を救援させた。拓跋猗盧らは漢軍が動いたと知ると退却した。
313年冬、拓跋猗盧は盛楽城を北都とし、平城を南都とした。平城を新たに立て直し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。
314年、劉琨は拓跋猗盧に漢攻撃を依頼し、彼らは期日を約束し平陽で合流することを決めた。ちょうどこの時期、石勒は王浚を捕縛し、その勢力を併合した。拓跋猗盧に属する諸族1万戸余りは、このことを聞くと、石勒に呼応して反乱を起こした。事が露見すると、拓跋猗盧はすぐさま討伐に当たり、全員皆殺しにした。しかし、漢攻略は中止せざるを得なくなった。
315年2月、愍帝は拓跋猗盧を進爵して代王に封じ、代郡・常山郡に官属を置くことが許された。拓跋猗盧は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整えた。これが代国の始まりとされる。
拓跋猗盧は、末子の拓跋比延を寵愛しており、世継ぎにしようと考えた。そのため、長男の拓跋六脩はこれをはなはだ妬み、拓跋猗盧の招集命令に応じなくなった。拓跋猗盧は大いに怒り、兵を挙げて討伐に当たった。だが、拓跋六脩に返り討ちに遭い、兵は離散してしまった。拓跋猗盧は粗末な姿に身をやつして逃走を図ったが、1人の賤女が彼の顔を知っており、遂に拓跋六脩に見つかり、殺されてしまった。
そのころ拓跋普根は国境付近を守っていたが、このことを聞くとすぐさま駆けつけ、拓跋六脩を破り、殺した。 こうして国内を平定すると、王位を継承した。
だが、この一件により国中は大いに乱れ、拓跋部の民と晋や烏桓から帰順した人が互いに殺し合った。拓跋猗盧の腹心として長年仕え、衆望を集めていた左将軍の衛雄と信義将軍の箕澹は、このような事態に陥ったので、劉琨へ帰順しようと謀った。そして、人質として派遣されていた劉琨の子劉遵と共に、晋人や烏桓人3万世帯と牛馬羊10万頭を率いて劉琨へ帰順した。劉琨は大いに喜び、自ら平城へ出向いて彼等を迎え入れた。これによって、劉琨の勢力が再び強大になった。
4月、拓跋普根が亡くなった。在位期間はわずか1月であった。その息子は生まれたばかりだったが、拓跋普根の母の惟氏により代王に立てられた。しかし、この幼主も同年12月に夭折した。
拓跋鬱律の時代
316年、拓跋猗盧・拓跋普根およびその子が相次いで亡くなると、代の者は拓跋鬱律を代王に擁立した。
318年6月、鉄弗部の劉虎が黄河を渡り、再び代国西部に侵攻してきた。7月、拓跋鬱律は軍を率いて迎撃に当たり、これを大破した。劉虎は単騎で包囲を突破して逃走した。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、拓跋鬱律は娘を与えた。
その後、拓跋鬱律は西へ向かい烏孫の故地を攻略し、東へ向かい勿吉以西の地区を併合した。拓跋部の兵馬は強壮であり、騎射ができる将は百万にのぼったという。他部族を圧倒しており、代国は北方に覇を唱えた。
同年、前趙の劉曜が晋の愍帝を殺害したと聞くと、大いに嘆いた。劉曜は代国へ使者を派遣して和親をはかったが、拓跋鬱律は受け入れなかった。
319年、石勒は自ら趙(後趙)王を称すと、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、拓跋鬱律は遣使を斬り捨てると、国交を断絶した。
幽州刺史段匹磾の兵民は飢餓のため離散し、薊を守る力がなくなり、上谷に移動しようとした。拓跋鬱律はこれを攻撃し、敵軍を壊滅させた。段匹磾は妻子を棄てて楽陵郡に奔り、冀州刺史邵続を頼った。
321年、東晋の元帝が代国へ使者を送り爵位を与えたが、拓跋鬱律はこれを断った。拓跋鬱律には、南方を平定しようという志があった。
伯母の惟氏(拓跋猗㐌の妻)は、拓跋鬱律が部族の心を得て、その勢力が強大であるため、自らの子が後継に立てられないことを恐れた。惟氏は、拓跋鬱律と諸大人を殺し、死者は数十人に及んだ。
混乱期
拓跋鬱律の死後は惟氏の子の拓跋賀傉が即位した。拓跋賀傉はまだ自ら政務ができる歳ではなく、代わりに惟氏が政務を執り行った。惟氏は後趙と修好を深め、後趙では彼らのことを「女国からの使者」と呼んだ。
324年、拓跋賀傉は親政を始めるが、諸大人はまったく帰服しないので、拓跋賀傉は東木根山に城を建て、そこに移り住んだ。
同年、涼州刺史の張茂が死に兄の子の張駿が後を継ぐと、代国に使者を送ってきて朝貢した。
327年、後趙の石勒が、石虎に5千騎を与えて国境へ侵攻してきた。拓跋紇那はこれを句注・陘北で迎撃に当たったが、不利となったため、大寧に移った。
時に、拓跋鬱律の長子の拓跋翳槐は、妻の一族である賀蘭部にいた。拓跋紇那は拓跋翳槐の身柄を引き渡すよう求めたが、賀蘭藹頭はこれを拒否した。拓跋紇那は怒り、宇文部と兵を合わせてを討伐軍を差し向けて来たが、賀蘭藹頭らが撃退した。
329年、危機を感じた拓跋紇那は宇文部へ亡命した。賀蘭部及び諸部大人は、拓跋翳槐を共立して代王に立てた。石勒は使者を送り和親を求め、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼犍を襄国に遣わした。
335年、賀蘭藹頭が職務を怠けていたため、拓跋翳槐は尊大だと言い立て、これを招き寄せて殺した。これにより、諸部は皆、拓跋翳槐に愛想を尽かして離反した。拓跋紇那は好機と見て、宇文部から攻め込み、諸部大人はこれを迎え入れた。拓跋翳槐は鄴へ逃亡し、後趙の庇護下に入った。石虎は彼を厚く遇し、邸宅・妾・召使・宝物を奉じた。これにより拓跋紇那は再び代王の座についた。
337年、後趙の石虎は将軍李穆に5千騎を与えて大寧を攻め、拓跋翳槐をここに移住させた。すると、部落の民6千余りが拓跋紇那の下を離れ、拓跋翳槐についた。拓跋紇那は前燕へ逃げ、国人は再び拓跋翳槐を擁立し、かつて盛楽城があった場所の東南十里へ、新たに盛楽城を築いて遷都した。その後の拓跋紇那の消息は不明である。
338年10月、拓跋翳槐は病に倒れ、その後間もなく亡くなった。
拓跋什翼犍の時代
拓跋翳槐は死ぬ間際、弟の拓跋什翼犍を後継に立て、国家を安定させるよう諸大人へ遺言した。梁蓋を初め諸大人は、拓跋什翼犍が遠く離れた地にいるため、彼を呼び寄せる間に変事が起こることを恐れた。そのためこの遺命に難色を示し、弟の拓跋孤を後継に立てようとした。しかし拓跋孤はこれを拒絶し、自ら鄴へ赴いて拓跋什翼犍を迎えた。そして、後趙の石虎と接見し、自ら兄に代わって人質となることを申し出た。石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも返還させてやった。
同年11月、国に帰った拓跋什翼犍は、繁畤城以北の地で代王に即位した。初めて独自の元号を用い、建国と称した。
建国2年(339年)、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の燕鳳を長史に、許謙を郎中令にそれぞれ任じた。反逆・殺人・強姦・窃盗などの法が明文化され、律令は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。連座や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼犍は烏桓を二部に分け、弟の拓跋孤に北部を、庶長子の拓跋寔君に南部をそれぞれ監督させた。東は濊貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。
拓跋什翼犍は、前燕とも修好を深め、婚姻関係となることを望んだ。燕王の慕容皝は妹を嫁がせ、拓跋什翼犍は彼女を王后に立てた。
建国4年(341年)9月、かつて盛楽城があった場所の南8里に新たに城を築いた。同月、王后の慕容氏が卒去した。10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西部国境に侵攻してきた。拓跋什翼犍は軍を派遣して迎え撃ち、これを大破した。間もなく劉虎が没すると、子の劉務桓は代に帰順してきたため、拓跋什翼犍は彼に娘を娶らせた。
建国6年(343年)7月、拓跋什翼犍は再び前燕に婚姻を求め、結納として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼犍はこれを拒否した。また、傲慢な態度を取り、婿としての礼儀に欠けていた。8月、慕容皝は世子の慕容儁に命じ、慕容評らを従え代国を攻撃させた。拓跋什翼犍は軍を撤退させたため、慕容儁は戦うことなく引き返した。
建国7年(344年)2月、拓跋什翼犍は大人の長孫秩を前燕へ派遣し、慕容皝と再度和睦した。慕容皝は娘を送り、拓跋什翼犍は王后に立てた。9月、兄の拓跋翳槐の娘を慕容皝の妻として与えた。
建国14年(351年)、冉閔が華北を荒らすようになると、拓跋什翼犍は自ら六軍を率いて、中原を平定しようと目論んだ。だが、諸部大人の反対を受け、作戦を中止した。
建国19年(356年)1月、劉務桓が死に、弟の劉閼頭が後を継いだ。彼は代国へ対し異心を抱いていた。2月、拓跋什翼犍は西へ向かい、黄河の岸辺に至った。使者を劉閼頭の下へ派遣し、彼を諭した。劉閼頭は大いに恐れて、降伏した。同年冬、慕容儁は代へ使者を派遣し婚姻を求めると、拓跋什翼犍はこれに同意した。
建国21年(358年)、鉄弗部で大規模な造反が発生した。12月、劉閼頭は恐れ、配下を引き連れて東へ逃げた。残った者は、ほとんどが劉悉勿祈(劉務桓の子)へ帰順した。劉悉勿祈の12人の兄弟は全て拓跋什翼犍の近辺で職務に就いていたが、この事件が起こった時、拓跋什翼犍は彼らを全て送還し、劉閼頭と相互に疑わせて勢力を削ごうとした。これにより、劉悉勿祈は劉閼頭を攻撃し、その兵を全て奪った。劉閼頭は止むを得ず代へ亡命し、拓跋什翼犍は彼を以前同様に遇した。
建国23年(360年)6月、王后の慕容氏が卒去した。7月、劉悉勿祈の後を継いだ弟の劉衛辰が代へ出向き、慕容氏の弔問を行った。その際、拓跋什翼犍へ婚姻を求めたので、娘を彼に娶らせた。
建国26年(363年)10月、高車が代国の領域へ進出してくると、拓跋什翼犍はこれを討ち、大破した。
建国27年(364年)11月、没歌部を攻撃してこれを破ると、家畜の数百万匹を捕獲して帰還した。
建国28年(365年)1月、鉄弗部の劉衛辰が代に背くと、拓跋什翼犍は討伐に赴いた。彼が黄河を渡ると、劉衛辰は恐れて逃走した。
建国29年(366年)、拓跋什翼犍は長史の燕鳳を使者として前秦へ派遣して、入貢した。
建国30年(367年)2月、前燕は大規模な遠征を行い、漠南の高車を攻撃に向かった。代国の国境を通る際、稲田を荒らしたので、拓跋什翼犍は激怒した。8月、拓跋什翼犍は幽州軍を率いて雲中にいた慕輿泥を攻撃した。慕輿泥は城を捨てて逃走し、振威将軍の慕輿賀辛は戦死した。
10月、拓跋什翼犍は、劉衛辰征伐の軍を起こした。盛楽から西の朔方へ向かい黄河を渡ろうとした。この時、黄河がまだ凍りついてなかったので、拓跋什翼犍は兵を派遣し、葦で太い紐を作って氷の流れを遮らせた。しばらく待つと河が凍りついたが、まだそれほど堅くなかった。そのため、葦を氷上に散らさせて、気温が下がるのを待った。またしばらく待つと、葦が凍りつき、まるで浮き橋のようになった。これによって大軍は順調に渡河することが出来た。 突然目の前に代軍が現れたため、劉衛辰は突然すぎて対応が取れず、兵士を引き連れて宗族とともに西に逃走した。そしてそのまま前秦へ亡命したが、慌てふためいて一心不乱に逃げたため、部族の6・7割が置き去りにされ、拓跋什翼犍はその兵を吸収した。
建国33年(370年)11月、高車を征伐に赴き、これを大破した。
建国34年(371年)春、長孫斤が謀反を起こした。太子の拓跋寔はこれを討つが、傷を負ってしまい、それが原因で5月に卒去した。
建国37年(374年)、拓跋什翼犍は再度劉衛辰の征伐に向かい、敗れた劉衛辰は南へ逃走した。
建国39年(376年)、劉衛辰の要請により、前秦の苻堅は大司馬の苻洛に20万の兵と朱肜・張蚝・鄧羌等を与えて侵攻させた。彼らは道を分けて進み、南の国境へ侵攻した。11月、白部・独孤部はこれを迎撃するが、2度敗北した。南部大人の劉庫仁は雲中郡に撤退した。拓跋什翼犍は再び劉庫仁を派遣し、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗れた。当時拓跋什翼犍は病を患っており、群臣にこの重責を担えるものは誰もいなかった。そのため、軍を率いて陰山の北に逃れた。すると、高車を初めとした各部族が相次いで反乱を起こし、拓跋什翼犍は四方を敵に囲まれることとなり、もはや統治を維持できず、さらに漠南へ移った。その後、前秦軍が少し後退すると、拓跋什翼犍も軍を戻した。12月、拓跋什翼犍は雲中郡まで戻ったが、その12日後、拓跋孤の子の拓跋斤にそそのかされた庶長子の拓跋寔君により、拓跋什翼犍は諸弟と共に殺害された。享年57であった。拓跋什翼犍が殺されたことが前秦軍に伝わると、秦将の李柔と張蚝は瞬く間に雲中郡を攻略した。これにより代国は前秦の支配下に入り、東西に分割された。
官職
拓跋什翼犍は即位した際、百官を置いた。おもな官職は晋朝と同じである[1]。
- 左右近侍職…定員なく、近親の者が選ばれる。
- 内侍長…定員4名。のちの侍中・散騎常侍に当たる。
- 北部大人…最初は拓跋孤が監督。のちに劉眷などが担当。
- 南部大人…最初は拓跋寔君が監督。のちに劉庫仁などが担当。
歴代君主
代王は、第6代紇那と第7代翳槐がそれぞれ廃位ののち復位しているので、8主で10代を数える。最後の第8代什翼犍の孫である珪も前秦が弱体化すると自立して代王を称しているが、こちらは通常初代魏王(後の北魏皇帝)として数え、歴代の代王には含めない。なお、それぞれの廟号・諡号は、いずれもその珪が北魏皇帝として即位した後に先祖に追諡したもので、「帝」とあっても存命中の実際の称号は「王」である。
代 | 姓・諱 | 廟号・諡号 | 在位 | 続柄 |
---|---|---|---|---|
1 | 拓跋猗盧 | 穆帝 | 315年 - 316年 | 拓跋猗㐌の弟 |
2 | 拓跋普根 | 316年 | 拓跋猗㐌の長男 | |
3 | (不詳) | 316年 | 拓跋普根の子、夭折 | |
4 | 拓跋鬱律 | 太祖平文帝 | 317年 - 321年 | 拓跋猗盧の弟の拓跋弗の子 |
惟氏 | 321年 - 324年(太后監国) | 拓跋猗㐌の妻 | ||
5 | 拓跋賀傉 | 恵帝 | 321年 - 325年 | 拓跋猗㐌の次男 |
6 | 拓跋紇那 | 煬帝 | 325年 - 329年(廃)、335年 - 337年 | 拓跋猗㐌の三男 |
7 | 拓跋翳槐 | 烈帝 | 329年 - 335年(廃)、337年 - 338年 | 拓跋鬱律の長男 |
8 | 拓跋什翼犍 | 高祖昭成帝 | 338年 - 376年(前秦に滅ぼされる) | 拓跋鬱律の次男 |
拓跋珪 | 太祖道武帝 | 386年(代王を称して自立、同年魏王を称す) | 拓跋什翼犍の子の拓跋寔の子 |
系譜
数字は代王の即位順
聖武帝 拓跋詰汾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿髪匹孤 | 神元帝 拓跋力微 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文帝 拓跋沙漠汗 | 章帝 拓跋悉鹿 | 平帝 拓跋綽 | 昭帝 拓跋禄官 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桓帝 拓跋猗㐌 | (1) 穆帝 拓跋猗盧 | 拓跋藍 | 思帝 拓跋弗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2) 拓跋普根 | (5) 恵帝 拓跋賀傉 | (6,8) 煬帝 拓跋紇那 | 拓跋六脩 | 拓跋比延 | (4) 平文帝 拓跋鬱律 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3) 名不詳 | (7,9) 烈帝 拓跋翳槐 | (10) 昭成帝 拓跋什翼犍 | 拓跋屈 | 拓跋孤 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拓跋寔君 | 献明帝 拓跋寔 | 秦王 拓跋翰 | 拓跋閼婆 | 拓跋寿鳩 | 拓跋紇根 | 拓跋地干 | 拓跋力真 | 拓跋窟咄 | 拓跋斤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北魏太祖 道武帝 拓跋珪 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年号
脚注
参考文献
- 『魏書』(帝紀第一、官氏志)
- 『資治通鑑』
- 岡崎文夫『魏晋南北朝通史 内編』平凡社〈東洋文庫506〉、1989 ISBN 4-582-80506-X(原著『魏晋南北朝通史』弘文堂書房、1932年)