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著者の劉熙については、[[北海郡|北海]]出身の学者で<ref>『四庫全書総目提要』</ref>、後漢の末ごろに[[交州]]にいた<ref>『[[三国志]]』呉書の[[程秉]]伝および[[薛綜]]伝</ref>ということのほかはほとんど不明である。『[[隋書]]』経籍志には、劉熙の著作として『釈名』のほかに『諡法』および『[[孟子]]』の注を載せている。 |
著者の劉熙については、[[北海郡|北海]]出身の学者で<ref>『四庫全書総目提要』</ref>、後漢の末ごろに[[交州]]にいた<ref>『[[三国志]]』呉書の[[程秉]]伝および[[薛綜]]伝</ref>ということのほかはほとんど不明である。『[[隋書]]』経籍志には、劉熙の著作として『釈名』のほかに『諡法』および『[[孟子]]』の注を載せている。 |
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『釈名』の成立年代は不明だが、273年に[[韋昭]]が投獄されたときの上表文に「又見劉熙所作釈名」とある<ref>『[[三国志]]』呉書・韋曜(=[[韋昭]])伝</ref>。[[畢ゲン|畢沅]]は、釈州国篇の地名に[[建安 (漢)|建安]]年間以降のものがあることなどから、後漢末から魏のはじめにかけての著作としている<ref>[[畢ゲン|畢沅]]『釈名疏証』序</ref>。[[ |
『釈名』の成立年代は不明だが、273年に[[韋昭]]が投獄されたときの上表文に「又見劉熙所作釈名」とある<ref>『[[三国志]]』呉書・韋曜(=[[韋昭]])伝</ref>。[[畢ゲン|畢沅]]は、釈州国篇の地名に[[建安 (漢)|建安]]年間以降のものがあることなどから、後漢末から魏のはじめにかけての著作としている<ref>[[畢ゲン|畢沅]]『釈名疏証』序</ref>。[[銭大昕]]は[[三国時代 (中国)|三国時代]]の作とする説に反対して後漢末の作とする<ref>{{cite book|和書|author=銭大昕|title=潜研堂文集|volume=巻27・跋釈名|url=http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=85362&page=100&remap=gb}}</ref>。 |
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なお、『[[後漢書]]』には劉珍の著書にも『釈名』があったことを記すが<ref>『後漢書』文苑列伝上・劉珍「又撰『釈名』三十篇、以弁万物之称号云。」</ref>、劉熙とは時代が異なり、どういう関係にあるのか不明である。 |
なお、『[[後漢書]]』には劉珍の著書にも『釈名』があったことを記すが<ref>『後漢書』文苑列伝上・劉珍「又撰『釈名』三十篇、以弁万物之称号云。」</ref>、劉熙とは時代が異なり、どういう関係にあるのか不明である。 |
2020年8月11日 (火) 09:46時点における版
『釈名』(釋名、しゃくみょう)とは後漢末の劉熙が著した辞典。全8巻。 その形式は『爾雅』に似ているが、類語を集めたものではない。声訓を用いた説明を採用しているところに特徴がある。
成立
著者の劉熙については、北海出身の学者で[1]、後漢の末ごろに交州にいた[2]ということのほかはほとんど不明である。『隋書』経籍志には、劉熙の著作として『釈名』のほかに『諡法』および『孟子』の注を載せている。
『釈名』の成立年代は不明だが、273年に韋昭が投獄されたときの上表文に「又見劉熙所作釈名」とある[3]。畢沅は、釈州国篇の地名に建安年間以降のものがあることなどから、後漢末から魏のはじめにかけての著作としている[4]。銭大昕は三国時代の作とする説に反対して後漢末の作とする[5]。
なお、『後漢書』には劉珍の著書にも『釈名』があったことを記すが[6]、劉熙とは時代が異なり、どういう関係にあるのか不明である。
構成・内容
『釈名』は単語を内容によって釈天、釈地、釈山、釈水、釈丘、釈道、釈州国、釈形体、釈姿容、釈長幼、釈親属、釈言語、釈飲食、釈綵帛、釈首飾、釈衣服、釈宮室、釈床帳、釈書契、釈典芸、釈用器、釈楽器、釈兵、釈車、釈船、釈疾病、釈喪制の27篇に分けている。
各項目は単語を類似の音の字によって解釈し(これを声訓と呼ぶ)、その後ろに補足説明を加える、という形式になっている。たとえば釈天篇の「日」と「月」の項目は、
- 日、実也。光明盛実也。
- 月、闕也。満則闕也。
のように、「日(ジツ)」を「実(ジツ、ただし中国語では頭子音が異なる)」で、「月(ゲツ)」を「闕(ケツ)」で解釈している。実際には『説文解字』でもまったく同じ説明をしており、劉熙が必ずしも思いつきで解釈を加えたわけではない。
同じ釈天篇の
- 歳、越也。越故限也。
では、「歳(サイ)」と「越(エツ)」で音が似ていないように見えるが、劉熙の時代には音が近かっただろうと推測することができ、ある程度『釈名』を後漢代の音韻を推定するための資料として使うことができる。
実際にはもっと複雑な例もある。釈天篇冒頭の「天」の項目は以下のようになっており、
方言による「天」の発音の違いを説明し(ただし「以舌腹言之」などの意味はよくわからない)、それぞれについて別の字で解釈している。
また、釈車篇の「車」の項目では
- 車、古者曰車声如「居」。言行所以居人也。今曰車声近「舎」。車、舎也。行者所処若居舎也[7]。
とあり、昔と今で「車」の音が異なっていたとして、それぞれについて解釈を行っている。
テキスト・注釈
『釈名』には古いテキストが存在しない。最古のテキストは明の嘉靖3年(1524年)刊本で、四部叢刊本はこの本の景印であるが、誤りが多い。清以来、校勘と注釈の作業が行われ、その代表的なものに王先謙『釈名疏証補』(1895年)がある。
影響
貝原益軒『日本釈名』は、日本語の単語の語源について考察した書物で、『釈名』から名をとっている。
脚注
関連項目
外部リンク
- 王先謙『釈名疏証補』 巻一 。(巻二、巻三、巻四、巻五) (archive.org)
- 郎奎金輯 編『五雅』1626年 。(「爾雅』『小爾雅』『逸雅』『広雅』『埤雅』の5書を集めたもの。『逸雅』と呼ばれているのは実際には『釈名』であり、他の4書に題名を合わせたもの)
出典
- 『漢籍解題』
- 『漢字講座第2巻 漢字研究の歩み』