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「梅文鼎」の版間の差分

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== 略歴 ==
== 略歴 ==
幼少から父に従って『[[易経|周易]]』を読み、[[天体観測]]や暦算の学を好んだ。弟の梅文鼐・梅文鼏とともに同郷の[[倪正]]を師として学ぶ。『臺官交食法』を伝授されたときにその訂正・註釈として『暦学駢枝』2巻を著す。27歳の頃には師の倪正に大いに嘆賞されるに至る。仕官はしなかったが、康煕28年に[[北京]]で[[李光地]]と知り合い、[[康熙帝]]に紹介された。帝はかねて暦算に興味をもっていたので、[[康熙]]44年(1705年)の南巡のさいに文鼎を召して3日にわたって談論を交わした。帝は文鼎が仕官するには年をとりすぎたことを惜しみ、その孫である梅瑴成(梅以燕の子)を朝廷に召すことにした。[[徐光啓]]に始まった科学的暦学の建設は、梅文鼎によって大成されたと言える。暦学を[[数学]]と関連づけ、数学への関心を高めたのも彼の貢献による。[[汪中]]は「中西の暦学は、梅氏にいたって精密になった」と称え、[[銭大キン|銭大昕]]は梅文鼎を「清朝第一の算学家」と呼んでいる。
幼少から父に従って『[[易経|周易]]』を読み、[[天体観測]]や暦算の学を好んだ。弟の梅文鼐・梅文鼏とともに同郷の[[倪正]]を師として学ぶ。『臺官交食法』を伝授されたときにその訂正・註釈として『暦学駢枝』2巻を著す。27歳の頃には師の倪正に大いに嘆賞されるに至る。仕官はしなかったが、康煕28年に[[北京]]で[[李光地]]と知り合い、[[康熙帝]]に紹介された。帝はかねて暦算に興味をもっていたので、[[康熙]]44年(1705年)の南巡のさいに文鼎を召して3日にわたって談論を交わした。帝は文鼎が仕官するには年をとりすぎたことを惜しみ、その孫である梅瑴成(梅以燕の子)を朝廷に召すことにした。[[徐光啓]]に始まった科学的暦学の建設は、梅文鼎によって大成されたと言える。暦学を[[数学]]と関連づけ、数学への関心を高めたのも彼の貢献による。[[汪中]]は「中西の暦学は、梅氏にいたって精密になった」と称え、[[銭大昕]]は梅文鼎を「清朝第一の算学家」と呼んでいる。


== 著書 ==
== 著書 ==

2020年8月11日 (火) 09:46時点における版

梅 文鼎(ばい ぶんてい、1633年 - 1721年)は、中国代の天文家数学者暦学者。は定九。号は勿庵。寧国府宣城県の出身。

略歴

幼少から父に従って『周易』を読み、天体観測や暦算の学を好んだ。弟の梅文鼐・梅文鼏とともに同郷の倪正を師として学ぶ。『臺官交食法』を伝授されたときにその訂正・註釈として『暦学駢枝』2巻を著す。27歳の頃には師の倪正に大いに嘆賞されるに至る。仕官はしなかったが、康煕28年に北京李光地と知り合い、康熙帝に紹介された。帝はかねて暦算に興味をもっていたので、康熙44年(1705年)の南巡のさいに文鼎を召して3日にわたって談論を交わした。帝は文鼎が仕官するには年をとりすぎたことを惜しみ、その孫である梅瑴成(梅以燕の子)を朝廷に召すことにした。徐光啓に始まった科学的暦学の建設は、梅文鼎によって大成されたと言える。暦学を数学と関連づけ、数学への関心を高めたのも彼の貢献による。汪中は「中西の暦学は、梅氏にいたって精密になった」と称え、銭大昕は梅文鼎を「清朝第一の算学家」と呼んでいる。

著書

著書は80余種といわれ、その多くは『梅氏叢書輯要』におさめられた。内容は

  • 古代の暦法の研究
  • 西域の暦法の研究
  • 崇禎暦書の批評
  • 暦法の歴史と暦学についての意見
  • 発明した測量器械と図説

に分かれる。

  • 『暦学疑問』3巻
  • 『古今暦法通考』
  • 『勿庵暦算全書』75巻

参考文献

  • 杭世駿『道古堂集』巻29
  • 梁啓超『清代学術概論』(1974年、平凡社
  • 梅榮照編『明清數學史論文集』(南京:江蘇教育出版社)