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「興龍」の版間の差分

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'''興龍'''(こうりゅう)は[[中国]]の[[金 (王朝)|金]]及び[[モンゴル帝国]]の時代に「瀛王」または「漢興皇帝」を号した[[張致]]が建てた[[年号]]。'''興隆'''にも作る。『[[元史]]』『[[続資治通鑑]]』は使用年代を[[1215年]] - [[1216年]]とするが、[[銭大キン|銭大昕]]『[[二十二史考異|廿二史考異]]』は考証によって1216年建元説をとり、現在の研究もこれにしたがっている。
'''興龍'''(こうりゅう)は[[中国]]の[[金 (王朝)|金]]及び[[モンゴル帝国]]の時代に「瀛王」または「漢興皇帝」を号した[[張致]]が建てた[[年号]]。'''興隆'''にも作る。『[[元史]]』『[[続資治通鑑]]』は使用年代を[[1215年]] - [[1216年]]とするが、[[銭大昕]]『[[二十二史考異|廿二史考異]]』は考証によって1216年建元説をとり、現在の研究もこれにしたがっている。


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2020年8月11日 (火) 09:45時点における版

興龍(こうりゅう)は中国及びモンゴル帝国の時代に「瀛王」または「漢興皇帝」を号した張致が建てた年号興隆にも作る。『元史』『続資治通鑑』は使用年代を1215年 - 1216年とするが、銭大昕廿二史考異』は考証によって1216年建元説をとり、現在の研究もこれにしたがっている。

西暦・干支との対照表

興龍 元年 2年
西暦 1216年 1217年
干支 丙子 丁丑

出典

『元史』巻1 本紀1 太祖
(十年)夏四月,克清、順二州。詔張鯨総北京十提控兵従南征。鯨謀叛伏誅。鯨弟致遂拠錦州,僭号漢興皇帝,改元興龍

参考文献

  • 李崇智 『中国歴代年号考 修訂本』(北京:中華書局,2001年1月) ISBN 7101025129 191 - 192ページ。
  • 鄧洪波編 『東亜歴史年表』(台北:台湾大学出版中心,2005年3月) ISBN 9860005184 207ページ。


前の元号
大漢
中国の元号
次の元号
(なし)