コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「明恵帝姫」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「セン」→「詵」等の改名に伴うリンク修正依頼 (王詵) - log
18行目: 18行目:
| 埋葬日 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[王セン (北宋)|王詵]]
| 配偶者1 = [[王詵]]
| 配偶者2 =
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者3 =
36行目: 36行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
父帝の英宗が即位すると、宝安公主の位を授けられた。[[治平 (宋)|治平]]4年([[1067年]])正月、兄の神宗により舒国長公主に進封された。[[熙寧]]2年([[1069年]])7月、蜀国長公主に改封され、左衛将軍の[[王セン (北宋)|王詵]]に降嫁した。王詵との間に王彦弼を産んだが、夭折した。
父帝の英宗が即位すると、宝安公主の位を授けられた。[[治平 (宋)|治平]]4年([[1067年]])正月、兄の神宗により舒国長公主に進封された。[[熙寧]]2年([[1069年]])7月、蜀国長公主に改封され、左衛将軍の[[王詵]]に降嫁した。王詵との間に王彦弼を産んだが、夭折した。


公主は母の宣仁太后や姑の盧氏に孝事し、王氏の家族をみな援助した。盧氏は寡居の身であったが、公主の近所で暮らし、毎日美食をふるまわれた。盧氏はまた重い病いを患ったが、公主はみずから薬を持って看病した。公主は「賢主」と称賛された。
公主は母の宣仁太后や姑の盧氏に孝事し、王氏の家族をみな援助した。盧氏は寡居の身であったが、公主の近所で暮らし、毎日美食をふるまわれた。盧氏はまた重い病いを患ったが、公主はみずから薬を持って看病した。公主は「賢主」と称賛された。

2020年8月11日 (火) 07:49時点における版

明恵帝姫
続柄 英宗第2皇女

称号 蜀国長公主(追贈:明恵大長帝姫)
身位 公主→長公主
出生 皇祐3年(1051年
死去 元豊5月17日1080年6月13日
(享年32)
配偶者 王詵
子女 王彦弼
父親 英宗
母親 宣仁皇后
テンプレートを表示

明恵帝姫(めいけいていき、皇祐3年(1051年) - 元豊5月17日1080年6月13日))は、北宋英宗の次女。正妻の高皇后(宣仁皇后)の次女で、神宗の同母妹である。

生涯

父帝の英宗が即位すると、宝安公主の位を授けられた。治平4年(1067年)正月、兄の神宗により舒国長公主に進封された。熙寧2年(1069年)7月、蜀国長公主に改封され、左衛将軍の王詵に降嫁した。王詵との間に王彦弼を産んだが、夭折した。

公主は母の宣仁太后や姑の盧氏に孝事し、王氏の家族をみな援助した。盧氏は寡居の身であったが、公主の近所で暮らし、毎日美食をふるまわれた。盧氏はまた重い病いを患ったが、公主はみずから薬を持って看病した。公主は「賢主」と称賛された。

王詵は画家として著名であり、奔放で自由な生活を好んだ。公主は夫に対して厳しくなかったため、王詵は蘇軾らの芸術家としばらく放蕩生活をした。結局、元豊2年12月26日(西暦で1080年)に王詵は免職されたが、翌年(西暦で同年)4月、公主が病気中にその求めで復職された。公主の看病の際、王詵は侍女たちと公主の側で姦通し、侍女たちは公主を嘲笑した。公主は自身を看病する太后や神宗にこのことは黙っていた。翌日(5月17日、西暦で6月13日)、公主は30歳で薨去した。神宗は号泣して公主の府邸に急ぎ、朝廷を5日間停止した。

その後、公主の乳母は王詵のことを神宗に上告した。神宗は激怒し、王詵は免職追放され、8人の侍女は兵卒と結婚させられた。公主は越国長公主を追贈され、「賢恵」とされた。元祐元年(1086年)11月、越国大長公主の位を再追贈された。元符3年(1100年)3月に甥の徽宗により秦国大長公主を改贈され、荊国大長公主に進み、政和2年(1112年)閏4月に魏国大長公主を改贈された。政和4年12月(西暦で1115年)、賢恵大長帝姫の位を再追贈され、翌年(西暦で同年)正月、明恵大長帝姫を改贈された。

伝記資料

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』